墓のそばに母の姉が住んでいて、膝の調子が悪い母は、坂の上り下りのある墓には参らず、いつも私がお墓に参っている間、姉の家で世間話をする。年に1~2度の姉妹の会話だ。つまり墓参りをするのは私で、母自身は自分の姉と無事を確かめあうのである。
その伯母(母の姉)は、ここ1~2年で、急に物忘れがひどくなり、認知症の症状が時折出るようになった。同居の伯父は、体の調子が悪いので、一日のほとんどを寝て過ごしている。だから、子どもたちが交代で、夕方から翌朝まで世話をしに来るのである。その家は、昼間は鍵が締められているそうだ。
昨夜まで母は「足が痛いし、姉ちゃんがボケてるのを見るのもナンギやし、家もしまってるそうやから、お前だけで行って来い」と言っていた。だが、今朝、電話をかけて見ると、「来るのを楽しみに待っているから、来い」という返事だったらしく、にわかに一緒に行くことになった。
妻は他用があったので、私と母の二人で伯母の家に向かった。伯母の家の前で母をおろし、私は墓へ。ゆっくり話ができるように、じっくりと時間をかけてお参りした。
帰りに再び伯母の家に立ち寄った。私が家に入ると、伯父が「おお、来たか、まぁ座って茶でも飲め」と言ってくれた。伯母も挨拶をしてくれたが、目の力が弱かった。いつもなら冗談を言う伯母なのだが、そんな風に気が回らないようだった。左手が、細かく震えているのが見えた。
二言三言会話をしたが、家の前に止めた車の移動を促すクラクションが聞こえた(家の前の道は細いのだ)ので、あわてて外に出て、車を移動し、また戻ったら、母が外に出ていた。私が家を出たのをきっかけにして帰ろうとしていたのだった。
母が車に乗り込む間、伯母が玄関で見送ってくれていた。「愛想ナシやなぁ」「またおいで」というようなありふれた挨拶を交わしたのだが、笑顔で私を見る伯母の目は、どうも私のことをはっきりとわかっていないように思えた。
帰りの車中で、母は伯母の症状を心配していた。物忘れが一段と進んでいるようで、ずっと会話がずれていたらしい。体の動かない伯父は、はっきりとわかっているので、もどかしそうでもあり、さびしそうでもあったとか。
意に反して、伯母の心はこれからどんどん“離れて”いってしまうのだろう。日々をそれを見ているしかない、老いた伯父の気持ちを思うと、やるせない気持ちになる。あるいは伯母自身も、7~8割はわかりながら、残りの部分の記憶や反応が欠落している自分に気付いた時、さびしくてやりきれないんだろうな、と思う。
老いは、受け止めるしかないのだ。私は自分の老いを、どう受け止めていけるだろう
