「先輩、それずる働きですよ。」
そんな文脈で「ずる働き」という言葉を聞いたのは「テレビ報道記者〜ニュースをつないだ女たち〜」と言うドラマだったと思う。
本来働かなくて良い時間まで仕事に時間を捧げる人に対して、後輩社員の放った言葉だった。
「ずる」という言葉は通常良くない事に使う言葉で、「働く」と言うのは良い事だと思っていた。しかし、良い事をし過ぎるのがズルい(良くない事)と言うニュアンスに新鮮さを感じた。
昨今の日本には色々なITシステムが溢れているがこれらは誰かのずる働きによって支えられているといっても過言ではない。いや、ITだけでなくいろいろな分野でずる働きをするのは当たり前なのかもしれない。
私に代表されるように、少なくとも40代以上の人の感覚としては、働く事は良いことと思っていて、なぜ働きすぎが悪いことなのかわからないと思う。
求められているし、必要だし、今までそうやってきたし、何が悪いの?と言う感覚。
昨今、労働時間に関する法律も強化され、明確に働き過ぎが悪い事として定義された。
規定された時間を超えてこっそりと(あるいは堂々と)仕事をする事が「ずる」と定義された。
とはいえ、自身の選択で、会社に貢献し、会社を通して社会に貢献しているのだから、好きで長く働くのは問題ないではないか。私もそう考えていた。
しかし、そんな生活を続けると失うものがあると感じるようになった。
人間らしい心というか道徳観と言うか。
生活の時間すべてを仕事に捧げると、仕事に直接的に関係のある事にのみ頭(脳)を使うことになる。ビジネスで重要視されている論理的思考能力と損益の儲けに関すること。そればっかりしか考えられなくなる。その結果、人間らしさを失って、人間的にどうなのか?と思うような事に直面しても、ブレーキができなくなるのではないか。
そもそも、論理的な思考や、損益の計算や予測ならAIの方が得意かもしれない。つまり、ずる働きによって、どんどんAIに置き換えされる人になっていく。
また、ずる働きを永遠に続けているといつしか、自分がこんなに頑張っているのだから、人も同じように取り組むべきだとか、自由に時間を使っている人がズルいとか思い始る。
そうなると、もはや個人の選択の問題ではなくなってくる。周囲に対してずる働きを強要するかもしれない。
だからこそ、一人ひとりの各個人はずる働きで仕事にすべての時間を捧げるのではなく、しっかり個人の時間を使って人間らしい感性や、非合理的的な感情と向き合った方が良いと思う。それによって人間的に成長して善悪がわかるようになるのではないかと思う。
誰かのずる働きによって維持されるシステムは続かない。むしろ、非人道的な社会的な問題を引き起こすリスクすらある。
自己の献身によるずる働きは良くない。一度システムとして破綻させたとしても、直ちにずる働きは辞めるべきだと思う。
それによって本当は必要のない仕事も見極められるのではないか。
と最近考えた。