何が起こったのか? <第四運 35歳~44歳>
第三運(25~34歳)では脱サラ、起業後して、自宅兼店舗を父親と二人で手作りし、そんな最中に母親が脳卒中で倒れて、建築が一時休止となりましたが、それでも何とかスタートしました。しかし計画があまりにも漠然としたものだったので、何でも行き当たりばったりと、今になってみれば我ながら呆れてしまうものでした。
そして第四運(35~44歳)の運気に入って、どのようなことが起こったのか、命盤を検証しながら振り返ってみたいと思います。
この10年間の変化
■カメラの組み立て下請け、目覚まし時計の組み立て下請けなど仕事内容が次々に変わる
■家電販売会社のサービス課のアフターサービス下請
■慢性腰痛⇒廃業⇒会社員(新聞販売店社員)
■両親の介護と父の死
■家庭崩壊⇒離婚⇒住む所を失う
■一からの出直し
家電品メーカー修理サービスの下請は久しぶりの高収入に恵まれるようになりました。仕事は遣り甲斐があり毎日忙しく意気揚々としました。しかし、家庭電化製品の大型化で扱う製品は重いものも多く、ぎっくり腰をきっかけに慢性的な激しい腰痛に悩まされるようになりました。
そもそも私は「疾厄宮」が悪いので持って生まれた健康ハンディがある訳です。そんなことは知りませんから、ついつい無理をしていまします。
その結果、折角の下請け仕事も休業状態が多くなり、これも結局は泣く泣く廃業になりました。
ずっと感じて来たことは、何か物事がうまく行き始めると、必ずそれをぶち壊すような試練に遭遇することでした。
命盤の「福徳宮」は陰徳の行いから神仏からの享受を授かることを観る宮でもあります。私の場合ここが「破格」ですから、前世ではどうやら善い行いをするどころか、悪い行いが多かったのかも知れません。そのために今世ではやること成すこと邪魔が入るようなツケが回って来ていたのかも知れません。
そんなことに気付かずに、この人生も私は自棄に成り、他者に八つ当たりの人生を送って来ました。
本来の私の「福徳宮」は【化禄】が有り、人に対して慈悲の心で満たされるはずでしたが、【同象自化】や対宮からの【向心力D】で福徳宮は多重破格に成ります。つまり【化禄】の作用が後天的に損なわれる訳です。
この人生も根性の悪い人間として人に嫌われ、自暴自棄になり恨み辛みで生きるところでした。最後には自殺で幕を閉じたのかも知れません。
しかし、「生年四化」は一生無くなるものではありませんから、活用しようと思えば一生涯に渡って活用できる星でもあります。それに気付くことが大切です。
さて、欽天四化でこの大限の健康運を観るとけっこうな大凶です。ただし吉にもなっているので回復も見込める訳ですが。
腰痛を治すために、あちらこちらの整形外科や整体、治療院を訪れましたが、何処でも症状は改善せず、毎日が仕事も出来ずに痛みとの戦いでブラブラしている日々でした。生活はたちまち困窮し家庭内は重苦しい空気で満たされていました。
腰痛は激しくて、寝返りも出来ずに、トイレにも伝い歩きで、そっと忍び足で行きます。笑っても咳をしても飛び上がるほどの痛みに神経はボロボロ状態でした。でも、激しい腰痛であっても顔色は良いしやつれたりして居ませんので、他人からは怠けているとしか思われません。
何処の病院でも原因がはっきりせずに治療は薬と牽引です。
そんな時には何かの祟りなのかとマジでそう思いました。
気功や針灸も効果は無く、噂を聴いては遠方の有名な先生を訪ねても効果は皆無。
しかし、1年以上経過した頃に、ある脳外科の先生の処に腰痛とは別の症状で診察に行った時でした。
腰痛のことを話すと、先生は腰を診察してくれました。
MRIなど、いろいろな検査もしてくれました。
その結果、「第五腰椎分離滑り症」と診断されました。
いろいろな整形外科に行ってレントゲン検査なども多く行いましたが、何処でも原因は特定出来なかったのです。
脳外科の先生は、原因は「生まれつき」ということ、治すには徐々に背筋と腹筋を鍛えればOKというのです。
そんなに簡単な事だったのです。
実は、この大限の健康運は飛星派でも一応「大凶」しかし「大吉」でもありました。つまり「吉凶混濁」です。
年運では、39歳(巳)、40歳(午)、41歳(未)の三年間が大凶に等しく、ちょうど家電メーカー修理下請けを始めた時に重なります。
重量物を扱う時期と健康運が大凶の時期が一致していました。
このように運勢が大凶の時期と行動の時期が一致することは、よくあります。
つまり、悪いことが起こる時は、そういう時期に不向きなことを始めたりするのです。
そして吉運が巡る頃に症状が改善できたり、別の医者に行って原因が特定されるのです。
これらは、すべてシナリオに仕込まれたものと感じます。
この健康運が吉運に転ずる頃に、私は20年間ほど続けた自営業をすべて辞めて新聞店に勤務し始めます。
最初は痛い腰をいたわりながら歩きました。
しかし仕事で毎日何万歩も歩き回ることになると、背筋と腹筋が自然と鍛えられて行き、その結果は長年悩まされ続けた腰痛は完全に消失してしまいました。
さらに、新聞店勤務してからは健康にも自信が付き始めて、ジムに通い筋力トレーニングに励み始めます。
この時期が第五運の大限が変わる時でした。
第五運に入ってからトレーニングに励むようになり、身体は筋力逞しく変貌します。これまでの人生とは身も心も大きく変わるのです。
さらに桃の花が開花するような第五運になるのです。
そのことについては次回のblog「第五運」で記述します。
■父の介護と死
私の店舗兼自宅を一緒に工作してくれた父は、母が脳卒中で倒れてその看病もあったり、私の作りかけの家を完成させなければ成らなかったりと心労は限界にあったと思います。
その結果、父は急速に認知症が進み、私の家を完成させて3年後には自立生活が出来なくなってしまいました。母も半身不随です。
当時は現在のように介護制度が出来ていない時代でしたから、両親を自宅で介護するか、老健(老人保健施設)で三カ月看て貰うかの方法しかありませんでした。訪問ヘルパーも介護福祉士などといった制度も無い時代でしたから。
私自身も腰痛などで自営業の仕事を頻繁に休んでいる状態で、家族も幼子三人で妻は店番と収入も少なくなってジリ貧の時でした。財運も凶運の時期です。
両親が自立生活は出来ない状態ですと、実家のの行事や活動に息子が出て行かなければ成りませんでした。そういう封建的な時代です。
私は五人兄弟の末っ子ですが、成り行きで最後まで実家に残っていたために、長男のようなことをやるように成ってしまいました。
親の介護も実家のの付き合いも、そして私自身の住居のの付き合いもしなければ成りませんでした。(田宅宮に地劫)
これでは、仕事などしている暇は有りません。
またこの期間では、両方ので次々と老人が亡くなって行き、一年に何回も葬式をやりました。当時は現在のようにセレモニーの業者も無い時代です。
葬式は何処の家でも自宅で土葬の時代でした。
30歳代でも、私も葬儀委員長もやりました。土葬のための墓穴掘りも何回もやりました。
土中から出てきた人骨を丁寧に並べたりもしました。前に亡くなった人が埋まっている所を掘る訳ですからね。
現在の皆さんがこの話を聴けばまさにオカルトの世界かも知れませんね。
父親は認知症が酷く成り、ついには寝たきりの植物状態になってしまいました。実は植物状態になったのには理由があります。
認知症が激しくなった時に異常な暴力行動に出るように成り、困り果てた通所の老人施設(当時は今の施設とは制度が異なる)で強い向精神薬を投与して、そのまま動かなくなってしまい、呼びかけにも反応しない植物状態になってしまったのです。
そのようになった父を自宅で素人が介護は出来ません。
結局、父は入院することに成り三年ほど寝たきりで病院で過ごしました。
その間の医療費は私自身では到底賄えません。
(田舎の田畑も処分しても医療費に当てました。その結果、私は実家を相続しましたが得る財は有りません。朽ち果てた実家の固定資産税に長年悩まされることになります)
医療費の工面を兄たちにも相談しました。二男(兄弟宮に【化忌】の兄)は快く協力してくれました。しかし長男(財帛宮に【化忌】の兄)は嫌がりました。この長男は他の事でもお金を出し渋ることが多かったです。
「生年四化」の作用は面白いように作用しますね。
親の介護の三年間で私は兄たちに対して苛立ちが募りました。しかし、今になって思うと二男に対しては悪いことをしたと思っています。
今は二男に感謝しています。
兄弟宮と命宮の「串聯B」ですね。一度は切れても戻れるとも云えます。この場合の【必定】は「串聯」で最悪の事態は避けられたとも云えます。
父親が植物状態になった三年間は、母も半身不随で手間が掛かりました。
父親がこの大限で亡くなりましたので、残った母を私の家に同居させましたが妻や娘は嫌がりました。それは高齢の母が不潔に観えたせいもあるでしょう。
仕方なく私は自宅の敷地内にミニハウス4.5帖を建てて、そこに母に住んで貰いました。しかしプレハブ小屋では暑さ寒さが厳しく、母に申し訳なく思いました。何とかしてやりたいと思いましたが貧乏状態でしたので何もやってやれませんでした。
(でも離婚して、母を連れ出して一緒に住むようになった時には、母の喜ぶ顔が見られて嬉しかったです)
両親を観た三年間は、私自身の家庭も崩壊に向かいました。
妻からは「なんで末っ子なのに、こんな目に遭いながら面倒を看なきゃ成らないの?」と責められ、元々夫婦仲も良くない訳ですから増々決別に向かって行きました。
この期間の私の「大福徳宮」は、イライラの象意と観ます。
【自化B】が大田宅宮と大福徳宮で串聯です。家庭の事でイライラと観ても良いです。どちらの【自化B】も「生年B」をマイナスさせます。この大限では家庭をマイナスと観ても良いです。
■不倫⇒離婚
第四運も終わりに成る頃には、健康運も吉に転換し筋力トレーニングの効果もあって身体は逞しく変貌します。それと同時に活動的になってきて、これまでインドアの生活だったものが、アウトドア派に変わって行きました。
(運勢の変わり目は、本のページをめくるようにストンと変わるものではありません。大限などの変わり目から変化が出ますが、早めに出る場合もあれば境目を過ぎてから変化が起こり始める場合もあります)
会社務めでは同僚が居ます。女性の同僚も多く、姚花傾向が強まります。
(奴僕宮や兄弟宮に【化科】【化禄】が巡る時は基本的には人の縁が出来やすく姚花の傾向も出ます)
結婚して直ぐに家庭内離婚みたいになってしまった生活が、出会い運が巡るのですからウキウキするのも無理はないでしょう。
妻にも出会い運が巡ります。
(妻の命盤も姚花の強い命盤です。結婚相手は必ず因縁の関係です)
互いが、それぞれの出会い運で翻弄される期間が始まるのです。
妻も自営業廃止でパートの仕事に何十年ぶりに家の外に出ます。
互いに桃の花が咲き始めました。
そんな時に私にも妻にも大きな事件が起こりました。
どっちもどっち、という諺が有りますが、そんな出来事が互いに起こったのです。
離婚するときというのは、互いの「夫妻宮」が凶に成る時期が一般的です。
そして離婚ということになって、第三運は終わりました。
この大限をまとめてみますと、大限「官禄宮」は寅の宮で変化変動が多くなりました。よく寅と申の宮が良くないと云われますが、そういう事かも知れません。
夫婦仲が増々険悪になっていきました。大限「夫妻宮」に【自化D】ですし、飛星派でも凶運です。
家庭内も寒々した状況になりました。親の事、実家の事では苦労の多い時期でした。大限の田宅宮や父母宮は凶運期です。
単純に命盤を観ますと、大夫妻宮(大限の夫妻宮)に【自化D】で夫婦関係、配偶者の事では大凶です。
大奴僕宮も悪いです。欽天四化の「六線法」では【兄友ライン】として生死も含め災難要注意の象意です。
大田宅宮には【化権】で本来は住居や不動産を必ず取得することが出来る時期でもありますが、【同象自化】で手にしても失う意味も有ります。
「串聯」していれば【必定】は避けられると云われていますが、そうとも言い切れません。この時期に私は離婚に伴い三人の娘のためも考えて、自宅を妻に無償贈与しました。
母子四人は自宅に残り、そして私は母を連れてアパートへ引っ越しました。
母の物だけを持って、まさに裸一貫とはこのことと思います。
冷蔵庫や洗濯機も無く、貯金も無く、一からの出直しでした。
幸い新聞店勤務によって毎月少ないながらも固定収入が得られるようになったのは有難かったです。
そして、この第四運は終わりました。
次回は、第五運です。