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日々のスピリチュアル日記です。

ありがとうと言える事

最近、産まれて初めてLGBTの人と出会った。ガチガチのカトリックであった私の若い頃には、霊的に巡り会う事は無かった。
正直、不倫をしている人さえ同席に堪えられ無い感覚すら私は持っていた。

しかし私が30代になった頃には「脳の問題と違いだから、クリスチャンとしての霊的目的を目指すので無いのなら一概に否定出来ない・・・という思いも抱く様になっていた。

実際に出会った人に目が止まった理由は、余りにも淋しそうな目をしていたから。始めはLGBTとは気付かなかったが、人を避ける様子から徐々に複雑さが伝わり、一般的な仕事にたどり着くまでの過程で大変な精神的葛藤を生き抜いてきただろうし、傷ついてきたのだろうと読み取れた。

未知の経験の苦労を堪えしのんで生きてきた人に、個人的にとやかく詮索する資格は私には無いなと思う。パ―トナ―間に肉体欲求だけで語れないエネルギー循環がそこに有るなら尚更。

只その社会での精神的葛藤の苦労を思うと、魂的、霊性に置いて幸せであって欲しいと思う。

LGBTでは無い人間にとっても、ぶれない関係を晩年まで築ける事は容易ではない時代だからこそ、彼らの幸福の築き方を少し心配に感じる思いもある。

否定に入ってしまうけれど、道を極める為に性的欲求を越えた人生を選ぶ修道を見て生きた私には、人が魂として外見の性別設定に同意して産まれた以上、LGBTの方のその晩年に一般的な家族を持てない寂しい見返りが来てしまう事は避けられない様な気がする。
それは、ボッチで生きる私とて同じ事だとは思うが、絶対に反対して置きたい事がある。
家族という理想や夢を実現する為に、LGBTカップルが養子を得ようとする事。

自らの人生で経験した苦労を倍にして、子供自身が判断もつかない内に有無を言わさずに背負わせてしまう事はLGBTカップルのエゴだと思う。
願わくば、男性性と女性性のバランスのある養育環境を子供には与えるべきであって、自分の育つ環境を選べない子供の精神生育に相応しいとはどうしても思えない。

壊れた夫婦間での悪環境と比較して正当化したがる話も聞くが、全く次元の違う比較話であって、私から見れば教育虐待と似ている気さえする。
養育支配の元に親を認めろと強いている気さえする。

彼等には、性別に関わらない魂の人間成長も大切にして、循環する愛のエネルギーを確保して貰えたら・・・と願っている。

頻繁にパ―トナ―を替える事無く、相手との間に生まれる人間としての葛藤を積み重ね、子供がいない夫婦と同じ様に年を重ね、性が枯れても苦楽を共にしたパ―トナ―と絆の深い老後を迎えてもらえたらと思う。

人は生涯を終える時、どちらが先に亡くなっても、長い月日を寄り添われ見守られたパ―トナ―に
「ありがとう」
を言えたら幸せなのでは無いかなと思う。そしてLGBTの方々がどう思うかは解らないが、そんな人生であってくれたらと私は思う。

パ―トナ―のいないシングルの私は、
「感謝します」を
神々様に言うしか無いのだけれど・・・。


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