円谷特撮レジェンド誕生地
ウルトラマンを創った男たちの原点
祖師谷にあった円谷英二邸は、特撮を志す若者たちの駆け込み寺でなっていました。
1948年半ばに後に東宝の二代目特技監督となる有川貞昌が、1958年から60年にかけては中野稔、佐川和夫、金城哲夫などが来訪。
撮影所や研究所で働きながら、円谷特撮に不可欠な人材として成長していったのです――。
※本記事は「円谷英二邸跡-“特撮の神様”が住んだ場所-」から一部を抽出して追記したものです
有川貞昌
1948年6月、東宝の録音課での仕事が自分に合っていないと感じていた有川貞昌は、新しい仕事の伝手を紹介してもらうために円谷邸を訪ねた。
妻が東宝でスクリプターをしていた関係で英二氏のことを知り、戦時中に観た英二氏撮影の戦争映画についても聞きたいことがあったという。
有川氏は当時のことを「特殊技術とは何か、素人で何の知識もない私に、丁寧に私の質問に答えて下さいました」と話している。
また、自分が飛行機乗りだったことを告げると、英二氏もかつては飛行機学校にいたこともあって、しばし飛行機談義に花が咲いた。
その後、有川氏は記録映画だと思っていた『電撃隊出動』が模型とミニチュアによって撮影されていたことに驚き、特殊撮影の魅力に引き込まれた。
[怪獣島の決戦 ゴジラの息子より]
英二氏は、有川氏に対して「我々は空を飛ぶことはできないが、映画で大空高く飛ぼう。そんな仕事を君も一緒にやらないか」と誘ったという。
円谷の言葉には、大きな魅力と力があった。しかし、この場で即座に東宝を辞めるというわけにはいかない。
「すみません。少し考える時間をください」
と言って席を立った有川。門を開けて帰ろうとすると、「あれっ、……」円谷の家の門が、なかなか開かない。
「門が私に『帰るな』と言っているのか……」
くるっと向きを変えた有川は、また玄関まで戻って、「円谷さん」と大きな声で言った。(中略)
「今、考えが決まりました。お世話になります。東宝はすぐに辞めますから」
[ウルトラQ 第19話「2020年の挑戦」より]
有川氏は、翌日に東宝撮影所に辞表を出して、即日研究所に入所したという。
その後、数々の映画、テレビの特撮作品を手がけた有川氏は、東宝の二代目特技監督になるなど昭和期における特殊撮影を代表する一人となった。
その後、1971年に「オヤジ(英二氏の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無い」と東宝を退社し、系列会社の国際放映に移籍。
晩年は映像関係の専門学校の講師として特撮技術の指導に当たっていたが、2005年9月22日に死去。享年80歳だった。
「研究所時代のあのハングリー精神は、私にとっては不滅です」という言葉の通り、有川氏にとって円谷邸のプレハブ小屋が原点だったのです――。
中野稔
日大芸術学部に入学した中野稔氏は、将来は映像関係の技術職に就きたいと考えていた。
「夢があって、なおかつ将来の職業として貫くなら、憧れていた円谷英二氏のところに弟子入りするのが一番だ」
そう思った中野氏は、1958年12月のある土曜日、円谷邸をアポ無しで訪問した。
すると、色の浅黒いがっしりした人が出てきて「オヤジ、明日ならいると思うよ」と教えてくれた。これが英二氏の長男の円谷一氏だった。
翌日の日曜日、再訪すると英二氏は在宅しており、家に上がらせてもらった中野氏。
「緊張して一気に話す、特撮に対する僕の思いをやさしい眼差しで聞いてくれたオヤジは、映画界のことを何一つ知らない僕に、撮影所の見学を勧めてくれました」
[ウルトラQ 第1話「ゴメスを倒せ!」より]
東宝撮影所では、創立25周年記念映画『日本誕生』の特撮がクランクインしたところだった。
翌年には撮影所でのアルバイトを許可され、『孫悟空』(1959年)が中野氏にとって初めて就いたプロの現場となった。
また、室内作業といわれたオプチカルプリンターやアニメーションスタンドなどを駆使する合成作業全般を学ぶ傍ら、『モスラ』(1961年)では特撮助監督も務めた。
大学卒業後は円谷特技プロに入社し、光学撮影技師として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『マイティジャック』などで視覚効果の腕を振るった。
その後も、シネマディクトでビジュアル・エフェクツ・スーパーバイザーを務めるなどしていたが、2021年4月4日、肝不全のため死去。享年82歳だった。
中野氏は生前、「俺の身体は円谷英二で出来ているようなもんなんです」と語っていたという。
また、中野氏は亡くなるまでヒゲを生やしてたが、これは晩年の英二氏と交わしたある約束によるものだった。
ヒゲが嫌いな英二氏は、心臓を悪くして入院した時も見舞いに来た中野氏のヒゲをからかうため、「じゃあ、オヤジが退院してきたらこのヒゲ剃りますよ」と約束した。
しかし、英二氏はそのまま仕事に復帰することなく亡くなってしまったため、生涯剃れなくなってしまったという。
佐川和夫
日大芸術学部1年だった佐川和夫氏は、1959年の正月に中野稔氏に連れられて円谷邸を訪問した。
「正月なら円谷監督が在宅しているだろう」という考えによるもので、アポ無しだったが、家の応接間に通されて驚きでいっぱいだったとか。
英二氏に「特殊技術の世界で働いてみたい」と話すと、「厳しい仕事場で大変な社会だけど、それでよければやってみなさい」と言われたという。
ご家族が教会に行っていて帰ってこなかったので、2時間余りも付き合ってくれて、「円谷研究所に遊びに来ていいぞ」とも言われた佐川氏。
その後、研究所に出入りしているうちに、英二氏から「仕事を手伝ってみないか」と声を掛けられ、英二氏の紹介で特殊技術課にアルバイトで入ることに。
英二氏は東宝で『日本誕生』と『孫悟空』を撮影しており、佐川氏は特撮の撮影部の助手として勉強させてもらうことになった。
当時は最低でもカメラが3台回っており、カメラごとに撮影技師であるチーフがいて、助手が6人いたので、人手不足だったのである。
ひと月ほどするとフィルムに触らせてもらえるようになり、しばらくするとフォーカス、露出の係になったという。
佐川氏はその後、現場撮影から特殊美術、操演、特殊火薬、照明、室内作業、合成素材撮り、オプチカルプリンター合成などの特殊技術を学んでいった。
そして、大学卒業後に円谷特技プロに入社し、『ウルトラマン』では特撮班チーフカメラマンとして活躍し、『マイティジャック』にて特技監督としてデビュー。
マイティジャックでは、最初の特技企画段階からすべてに立ち会ったという。
その後も、『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマン80』などで特技監督を務めた。
円谷作品以外でも、『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』を始めとしたスーパー戦隊シリーズで迫力ある特撮映像を演出した。
金城哲夫
1960年の夏、玉川大学3年だった金城哲夫氏は円谷邸を訪問した。
脚本家になることを志した彼は、在学中の玉川大学文学部の専任講師でシナリオ作家でもあった上原輝男に英二氏との面会を依頼したのである。
その時の様子を『ウルトラマン昇天 ― M78星雲は沖縄の彼方』より引用する。
上原が金城をともなった理由を説明すると、英二は片方の耳で聞くように大きくうなずきながら、目をじっと金城にそそいだ。
眼鏡のおくのその視線は細く鋭く、金城の緊張感は次第にたかまっているように見えた。
英二は上原の話を聞きおえ、二、三の質問をしたあと「それではなにか書いたものをもってきてごらん」と、金城の顔を見ながらいった。
どうやら金城の弟子入り志願は聞きとどけられるようであった。ふたりはホッとして円谷家を辞した。
金城氏は英二氏から紹介された東宝映画の脚本家・関沢新一氏や、TBS演技部のディレクターだった英二氏の長男の円谷一氏に師事することになった。
円谷研究所に出入りしながらシナリオ執筆を学んでいった彼は、1962年にTBSのテレビドラマ『絆』で脚本家デビュー。
その後、円谷特技プロへ参画し、企画文芸部の長として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などの企画立案や脚本を手掛けることになる。
[ウルトラQ 第2話「五郎とゴロー」より]
20代の若さで企画立案、メインライターとしての脚本執筆、脚本家の台本修正、円谷プロ内外への連絡や調整などを仕切っていたのは驚きである。
『ウルトラマン』『ウルトラセブン』などで監督を務め、“鬼才”と呼ばれた実相寺昭雄氏は、彼のことを「天才」と称していたという。
明るくて人懐っこい人柄から現場のムードメーカーでもあり、当時の関係者は「最初期のウルトラ作品の最大の功労者は金城氏」と口を揃える。
[ウルトラマン 第1話「ウルトラ作戦第1号」より]
下記に『ウルトラセブン研究読本』より、金城氏の退社後のルーティンを引用する。
金城は宮崎、市川を連れて4時前には退社する。
祖師ヶ谷大蔵駅への途中に銭湯があり、まずそこで汗を流す。そこから焼き鳥のたかはしへ。
だが、早過ぎてオヤジさんが焼き鳥をトレーに並べて支度しているところ。
金城をはじめ、企画室の面々が火おこしを手伝う。団扇などでバタバタ風を送り火をおこした。
ご褒美におやじさんがビールの栓を抜いて差し出す。金城は待ってましたとばかりにゴクリとやる。
炭火の上で焼き鳥がジュージュー音を立てている。
焼き鳥で小腹を満たすと、仕上げはスナックバー・AZだ。AZには撮影を終えた円谷一らスタッフも合流した。
僕は電車がある内に退散したが、金城は祖師谷に住んでいることもあり、連日深夜帰宅になった。
[ウルトラセブン 第1話「姿なき挑戦者」より]
金城氏が円谷プロを退社し、1969年3月に沖縄に帰郷した際の送別会は英二氏邸で行われた。
また、英二氏の死後、円谷プロの社長に就任した円谷一氏は1973年2月9日の朝5時頃、寝室で倒れ、搬送された隣の幸野病院で亡くなっている。
盟友だった金城氏は通夜の日、円谷家の庭のテントに呆然と座りつくし、一氏の遺影の前で葬儀の翌々日まで泣き崩れていたという。
現在も残る遺構
1966年6月に放送された『現代の主役 ウルトラQのおやじ』で、在りし日の円谷英二邸前の様子が映ります。
その映像では、円谷邸の扉の前が白いコンクリートで覆われていることがわかります。
現在の円谷邸跡では、その白いコンクリート部分の一部が残っています。
この場所を円谷英二をはじめ、有川貞昌や中野稔、佐川和夫、金城哲夫、満田かずほ、高野宏一 などのレジェンドたちが踏みしめていたことでしょう。
また、半円状の金属レールも残っていますが、これは隣にあった円谷一邸の扉の金属製ガードレールだと思われます。
レジェンド行きつけのお店
【はなぶさ】
祖師谷商店街にある「さか本そば店」の裏にあった円谷プロご用達の旅館。
金城氏をはじめとした円谷プロ文芸部の脚本家や、円谷作品の監督が企画立案や脚本書きなどをする際によく利用していた。
下記画像中央の林に囲まれている建屋が「はなぶさ」。
[出典 goo地図(古地図)]
ウルトラマンの企画書作りでは、1965年の夏から秋にかけて山田正弘と金城氏が3日、4日と連泊することもあったとか。
1966年3月16日のウルトラマンのクランクイン時には、午後3時から夜9時まで、はなぶさで飯島組の打ち合わせが行われている。
[出典 ウルトラマン 1996+ Special Edition / 金田益実・編」
ウルトラマン第1話「ウルトラ作戦第1号」の脚本は、金城氏が1966年5月11日から13日にかけて、はなぶさに泊まり込んで書き上げた。
彼が学生時代から師事していたシナリオ界の大御所・関沢新一氏が書き上げた第1話の脚本の評判が悪く、全面的に書き直すことになったためだった。
金城氏をはじめとした円谷プロ文芸部の脚本家や、円谷作品の監督が企画立案や脚本書きなどをする際によく利用していた。
下記画像中央の林に囲まれている建屋が「はなぶさ」。
[出典 goo地図(古地図)]
ウルトラマンの企画書作りでは、1965年の夏から秋にかけて山田正弘と金城氏が3日、4日と連泊することもあったとか。
1966年3月16日のウルトラマンのクランクイン時には、午後3時から夜9時まで、はなぶさで飯島組の打ち合わせが行われている。
[出典 ウルトラマン 1996+ Special Edition / 金田益実・編」
ウルトラマン第1話「ウルトラ作戦第1号」の脚本は、金城氏が1966年5月11日から13日にかけて、はなぶさに泊まり込んで書き上げた。
彼が学生時代から師事していたシナリオ界の大御所・関沢新一氏が書き上げた第1話の脚本の評判が悪く、全面的に書き直すことになったためだった。
『金城哲夫 ウルトラマン島唄』(上原正三・著)から引用する。
金城は、その夜から「はなぶさ」にこもって第1話の手直し作業にとりかかった。
一監督や制作サイドの意見を採り入れながらやるうちに手直し程度ではなくなり、三日もかかる全面書き直しの作業になった。
出来上がったシナリオは原型をとどめないほどで、金城のオリジナル作品となった。
円谷一監督がやって来て原稿に目を通す。緊張の金城。
「これです」一発OKだった。「ヒエー!」金城は奇声を発して、精魂尽き果てた感じで畳に大の字になった。
関沢氏の脚本のト書き一行も残さない大幅な改稿を行ったため激怒されてもおかしくなく、金城氏は関沢邸の出入禁止も覚悟していたという。
しかし、原稿を読み終えた関沢氏は愛弟子の労をねぎらい、彼の提案で第1話は関沢氏と金城氏の共同脚本という形となった。
ウルトラマンの企画作りが行われ、第1話の脚本が書かれ、クランクイン当日に打ち合わせが行われたこの場所は、“ウルトラマン創世の地”といえる。
【焼き鳥たかはし】
祖師谷商店街の路地裏にある「焼き鳥たかはし」。
金城氏や上原氏がはなぶさに籠って脚本書きをする時、夜は大抵こちらのお店で焼き鳥を食べて腹ごしらえをしていたという。
「シオタンにハツ。それからさ、ある?あれ」
「あるよ。あれね」
高橋のオヤジが炭を団扇で起こしながらニヤリとした。冬だというのに広い額にうっすらと汗を浮かべている。頑固そうなオヤジだ。
オヤジは、ビールとコップをドカンとカウンターに出すと、生レバーを包丁で無造作に切り、ニンニク醤油と一緒に出した。
「これが高橋名物なんだ」金城がぺろりと生レバーを口に入れた。それからおもむろにビールを注ぎイッキに飲み干した。
こちらの店には、中野氏を始めとした円谷プロダクションのスタッフも仕事終わりによく飲みに来ていた。
夕方6時から始まる飲み会のために、中野氏や金城氏は5時半頃に行って、暖炉を出したり、テーブルを掃除したりしていたとか。
【AZ(エーゼット)】
祖師ヶ谷大蔵駅前から西に向かう商店街の中ほどにあった喫茶店「エーゼット」。
小さなカウンターと3、4つのボックス席があり、常連の金城氏、中野氏、佐川氏らは、コーヒーと紅茶では我慢できず、ビールやウィスキーを置かせていたという。
1970年代の祖師谷の住宅地図を調べてみると、祖師谷昇進会商店街の中ほどに「エージェット」というお店があることを確認できる。
『ウルトラセブン』のアンヌ隊員役のひし美ゆり子氏のブログでも、この場所にエーゼットがあったと述べている。
『金城哲夫 ウルトラマン島唄』には、焼き鳥たかはしで腹ごしらえをした金城氏と上原氏がエーゼットを訪れた時の様子が書かれている。
「いらっしゃい」カウンターの中から大柄なママが迎えた。
「ちゃんとお家へ帰れた?昨夜は相当よっぱらってたわよ」そう声をかけたのはチャコだ。化粧気がなくシャキシャキした感じの娘だ。
「まず、ビール?」「いや、ストレート、ツーフィンガー」
「金城さん、ツーフィンガー」カウンターのママに声をかけた。
「なにか飲みなよ」
「じゃ、ジュース」
「お酒だめなの?」チャコが気の毒そうな顔をする。
「せめてジンフィーズくらいにしたら」
「じゃ、それだ」
AZはこぢんまりした喫茶スナックの雰囲気。5、6人が飲めるカウンターと人数によってどうにでも組み合わせが出来るソファとテーブルが適当に並んでいる。
「ここはね、円谷プロ専用の店なんだ。そうだよね、ママ」
「そういうことにしておきましょうかね」
金城のいうこともまんざら的外れではなかった。
ジンフィーズを舐めるようにしていると、撮影を終えた円谷一監督がスタッフを引き連れてどやどやと入ってきた。
なお、エーゼットはすでに閉店しており、現在、キッチンマカベという日本式洋食レストランなっている。
『ウルトラマン昇天-M78星雲は沖縄の彼方』には、エーゼットで仕事の打ち合わせをする様子が書かれている。
この日の話題は新しい仕事のことだった。
「宇宙からの来訪者と地球上の悪が闘う話だ。受けるぞこれは。問題は題名だ。うんと奇抜なタイトルにしたいんだ。なにかいい案はないか」
金城が話の中心になっていた。ビールの勢いが入って、彼らの声はいちだんと高くなった。
「おい、いっしょに考えろよ。タイトルはなにがいいか」
金城の大きな声に中野がいった。「WOOってのは?WOOと書いてウーって読ますのさ」
「WOO?」金城は一瞬とまどったが、すぐ大きな声でいった。
「よし、もらった。それにする。今度の作品は『WOO』に決めた」金城は企画書を書いた。
編集後記
中野稔氏の代表的な作品といえば、『ウルトラQ』のタイトル映像とバルタン星人の分身映像。
ウルトラQのタイトルは、木箱に糊を満たして、底に仕込んだ2枚のプロペラを動かし、文字が渦巻き状に乱れていく映像を逆回転させて作られました。
バルタン星人の分身は、カラーフィルムで正面の映像を重ねて複数に見せ、その間を歩く姿を白黒フィルムで何回も重ねています。
カラーの上に白黒を何回も重ねたことで全体が青くなり、幻想的な映像に仕上がったそうです。
アフレコ時に初めてこの映像を見た科特隊のメンバーが感動し、「この素晴らしい合成技術に負けない演技をしよう」と誓い合ったという逸話も。
また、これはあまり知られていませんが、円谷プロダクションのロゴも中野氏が作成しました。
円谷邸の庭にあったプレハブの円谷特技研究所の社屋に看板を作りたいと思い、会社のマークが無いのも寂しいと思ってデザインしたとか。
ツブラヤの「ツ」を一本線で繋いで、飛翔や上昇の意味を込めて右肩上がりにしたもので、紙飛行機にも見えるそのデザインを英二氏は大変気に入っていたそうです。
最後に、英二氏が亡くなった時の中野氏のエピソードを竹内博・著「写真集 特技監督・円谷英二」より引用させて頂きます。
今思うと、オヤジさんと仕事をしている時代は、本当に僕の青春だった。すべてだったと言ってもいい。
なにしろ、亡くなった時、オヤジさんの遺体にすがりついてワーワー泣いたんですから。
あとで円谷一さんに「この野郎、せがれの俺にもできないことをやりやがって」と言われました。
それ以来、若い連中なんかで集まる飲み会があると、必ずこう紹介されるんです。
「ウルトラQのオープニングを作って、オヤジの遺体にとりすがって泣いた中野稔です」と。
【円谷英二の作品の一つ】
英二氏の自宅には、後に円谷プロの作品を支える数多くのレジェンドが訪問しています。
しかし、当時はまだ無名であり、アポ無しで訪ねてきた見ず知らずの若者を快く迎え入れ、話に耳を傾け、その後の世話までした英二氏の器の大きさに驚かされます。
タモリは、故・赤塚不二夫の葬儀で「私もあなたの作品の一つです」と述べました。
有川貞昌、金城哲夫、中野稔、佐川和夫を始めとしたレジェンドたちも、円谷英二の作品の一つなのかもしれません。
英二氏が東宝で制作した数々の怪獣映画は、若かりし頃のスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスも夢中になって観ていたそうです。
スピルバーグに至っては、1968年に来日してアポ無しで美センを訪れ、英二氏に撮影手法について尋ねていったという逸話もあるとか。
【円谷英二邸跡地碑】
『ウルトラマン』を始めとした日本を代表する円谷特撮作品を作ったレジェンドたちは、円谷英二邸から巣立っていきました。
ある意味で円谷邸は、日本神話における高天ヶ原といえるのかもしれません。
そんな“特撮の神様”が暮らし、レジェンドを輩出した伝説的な場所であるにも関わらず、円谷英二邸の跡地碑などの記念碑などはありません。
英二氏の故郷である福島の生家跡には「生誕地碑」が建立されています。
英二氏が1937年に転居してから亡くなるまでの33年間を過ごした“第二の故郷”である祖師谷の地にも、記念碑があってもいいのではないでしょうか。
[作曲家・清瀬保二の居宅跡碑 / 世田谷区砧]
記念碑の建立が難しいのであれば、円谷邸があった通りを“円谷英二ロード”と名付けるとか、駅前の広場に英二氏の胸像を建立するという顕彰方法でもいいと思います。
今の時点では、世界の人々に夢と感動を与えた“世界の円谷英二”の存在を街を挙げて無視されているようで、「ウルトラファンとして悲しい」と言わざるを得ません――。
【出典】「写真集 特技監督・円谷英二」「ウルトラマンの現場」
「円谷英二特撮世界」「素晴らしき円谷英二の世界」「ウルトラQのおやじ」
「特撮円谷組 ゴジラと、東宝特撮にかけた青春」
「証言!ウルトラマン」「Pen / 2011年9月1日号」
「大人のウルトラマン大図鑑」「ウルトラマンティガ第49話『ウルトラの星』」