尾崎豊 “伝説のダイブ”
日比谷野外音楽堂で1984年8月4日に初開催された反核・脱原発フェス「THE ATOMIC CAFE MUSIC FES. '84」。
このコンサートで、まだ新人アーチストだった尾崎が、のちに伝説となる衝撃的なパフォーマンスを披露した。
“伝説のダイブ”から今日で40年目ということで、紹介させて頂きますーー。
電車で会場入り
まだ無名の新人アーチストだった尾崎は、ギターを抱えて朝霞の自宅から電車で会場入りした。
7番目に出演した彼は、タバコを吸いながらステージに登場。与えられていた持ち時間は、17時から30分間だった。
尾崎は、ピアノの前に座って1曲目の『反核』を静かに歌い始めた。
そして、2曲目は『Scrambling Rock'n' Roll』。この曲は、渋谷のスクランブル交差点を歩きながら作った曲だという。
「自由になりたくないかい!熱くなりたくはないかい!思うように生きているかい!」
オーディエンスに対して生き方を問う歌詞を熱唱し、曲が間奏に入った時、伝説として語り継がれる衝撃的な事件が起こる。
照明イントレからダイブ
尾崎は、高さ7mの照明イントレにスルスルとよじ登り始めた。
てっぺんに辿り着くと、彼は客席に向かって拳を何度も突き上げてオーディエンスを煽った後、胸で十字を切ったという。
そして次の瞬間、3階建ての建物とほぼ同じ高さから颯爽とステージに飛び降りた——。
左足を骨折
7mもの高さからコンクリートの床に着地した衝撃でステージに倒れ込んだ尾崎は、右足をねん挫し、さらに左足の踵を骨折。
一旦、スタッフに抱えられてステージ裏にはけ、救急車が呼ばれたが、「ステージを途中で投げ出すわけにはいかない」と尾崎は搬送を拒否。
スタッフに抱えられてステージに戻った彼は演奏を続行。左足を浮かせたり、スタッフに抱えられながら熱唱を続けた。
(こちらの映像ではスタッフに肩車をされながら歌っている)
しかし、骨折している左足の痛みは増していき、朦朧とする意識の中、最後はステージに這いつくばって激痛に耐えながら予定曲を歌い切った。
演奏終了後、ステージを降りた尾崎は、すぐさま救急車で搬送された——。
<SET LIST>
1. 反核 / 『核 (CORE) 』の原曲
2. Scrambling Rock' n' Roll (間奏中に骨折)
3. 十七歳の地図
4. 愛の消えた街
全治3カ月の重傷
本人の希望で、出自した自衛隊中央病院に搬送された尾崎は、右蹠(あしうら)捻挫・左踵(かかと)骨圧迫骨折で全治3カ月と診断された。
左踵の骨が一部陥没しており、整復手術のため2週間入院することになり、翌日の吉川晃司とのジョイントライブも含めて、以降のスケジュールは全て白紙となった。
退院後は松葉杖での生活が続き、ギブスが取れたのは同年11月下旬、ボルトを抜いたのは翌年の2月だった。
ちなみに、アトミックカフェには浜田省吾も出演していたため、後日、彼から病室にお見舞いの花が贈られてきたという。
尾崎は学生時代、浜田省吾を好んで聴いており、さらに看護婦さん達から「なんで浜省が尾崎君のこと知ってるの~?」ともてはやされ、喜んでいたとか 笑
「何かから逃れるために、高い所から飛び降りる」
これは、デザイナーの田島照久氏による尾崎豊のデビューアルバム『十七歳の地図』のジャケットのテーマ。
自ら作ったこのテーマによるジャケット画を、ライブ会場で“照明イントレからのダイブ”という形で実際に目の当たりにした田島氏。
その時、彼は尾崎に「(世間に提示したイメージを) 自ら演じて、落とし前をつけていく」という劇場型パフォーマンスの片鱗を感じたという。
尾崎の音楽人生は波乱万丈で、まさに劇場型だったといえるだろうーー。
【出典】「OZAKI50」「尾崎豊 十代の真実」「Freeze Moon」
「YUTAKA OZAKI OFFICIAL PAPER TeenBeat VOL.1」