風雲「城撮り物語」

長年愛用のデジカメを武器に「城址・城跡」を切り撮りその戦果をブログで紹介。

「長久手城」城撮り戦果

2007年01月23日 | 城撮り物語
○長久手城址(加藤太郎右衛門忠景)長久手町長湫字城屋敷
弘治年間(1555~1558)頃瀬戸から落ちこの地に城を修築し移り住んだ。
加藤忠景は日進岩崎城主「丹羽氏」の娘と結婚しその縁で長久手合戦の折には家康軍に参加し、天正12年(1584)岩崎城の戦いで戦死し長久手城も秀吉軍の池田恒興軍によって焼かれ廃城となった。
当時は丘陵地であったと思われるが、現在は住宅が立ち並び、僅かに広場と城址碑観音堂が残るのみである、近くに「血の池」と言う公園がある)

「墨俣城」城撮り戦果

2007年01月21日 | 城撮り物語
○墨俣城址(木下藤吉郎)安八郡墨俣町字城之越1742-1
墨俣城は永禄9年(1566)織田信長が美濃斉藤攻めの拠点として、長良川・犀川・木曽川などの合流する「州の股」のようになった墨俣に、砦を築くよう木下藤吉郎に命じた。
別名「一夜城」と言われる墨俣城は、川名衆の棟梁蜂須賀小六等の野武士を卒い木曽川上流から、基材を筏に組にで流し、短期間に川向こうの斉藤領に砦を築いた。
しかし、以前から斉藤側の砦として、墨俣の築かれていたとの文献もあり、定かではない。
現在は、当時の砦とはおよそかけ離れた、白亜の模擬城がそびえている。犀川沿いには桜並木が続き春は花見の人で賑わう

「東端城」城撮り戦果

2007年01月19日 | 城撮り物語
○東端城址(長田右衛門尚勝)安城市東端町中縄手
三河大浜の長田重元の嫡子長田尚勝が天正8年(1580)築城した。
天正12年尚勝の弟永井伝八郎直勝が長久手の戦いで秀吉方の池田恒興を討ち取りその恩賞で兄に変わって「東端城」を与えられ、尚勝は神官となって退いた。
その後、直勝は家康に従って働き、元和2年(1616)常陸国笠間に移封となり、城は廃上となった。

「藤井城」城撮り戦果

2007年01月19日 | 城撮り物語
○藤井城址(松平利長)安城市藤井町本郷
藤井城は永正年間安祥城主松平長親の五男利長が築城し藤井松平氏の祖となった。
藤井松平二代信一は安祥城奪回戦や信長の近江出陣には徳川勢の主将として蓑作城(蒲生郡五個荘町)攻略で戦果を上げた。
その後慶長6年常陸土浦城主3万5千石を領した。

「桜井城」城撮り戦果

2007年01月19日 | 城撮り物語
○桜井城址(小浦喜平治忠重)安城市桜井町城阿原
大永7年(1527)地領だった小浦氏が屋敷を構えたのが始まりであり、その後岩津から松平親忠が安祥城を攻撃した際、この城も所有となった。
三男の親房を「桜井城主」としたが、後継ぎが無いため、兄松平長親の三男「信定」を養子にした。そして桜井松平の祖となり、信定以来6代80年続いたが、天正18年(1590)家康の関東移封に伴い、武蔵国松山城へ1万石で移り桜井城は廃城となった。

「山崎城」城撮り戦果

2007年01月16日 | 城撮り物語
○山崎城址(松平広忠)安城市山崎長城跡

山崎城は天文12年(1543)に三ツ木城(岡崎市)の松平信孝が織田軍に通じており、岡崎城の松平広忠が備えとして築城した。
しかし天文18年、松平・今川連合軍が安祥城を攻撃した際に落城した。
その後天正13年(1585)小牧、長久手の戦いが起きると徳川勢により改修された。(説明板)
現在は「山崎神明社」の本殿の位置にあり、土塁の一部が残されており周囲は小高くなっている。
当時は周囲(南北90m、東西100m、高さ3.5mの土塁が方形に築かれた平城であった。

「安祥城」城撮り戦果

2007年01月16日 | 城撮り物語
○安祥城址(永享12年畠山一族の和田親平が築城)安城市安城町城堀
文名3年(1471)京都で応仁の乱が起きている時、岩津城主「松平信光」が諜略を用い戦わず攻め取る(城の近くで若者に綺麗な着物を着せ、盆踊りを行い、城の武士が見物に出た隙に城を占領)信光の子供「親忠」を城主とした、以後二代「長親」三代「信忠」四代「清康」と続き、その後織田氏との境界線に近いこの城を巡り、大永4年(1524)松平・今川対織田の間で10年近く激しい戦いが続き、桶狭間の戦い後、信長と家康の間に清洲同盟が結ばれ、本拠を岡崎に移し、安祥城は廃城となる。
現在は本丸址に大乗寺、二の丸跡に八幡社がある。

「大野城」(宮山城)城撮り戦果

2007年01月09日 | 城撮り物語
○大野城祉(佐治駿河守宗貞)常滑市青海町
室町時代の終わり、佐治氏四代に渡り勢力を張った山城(初代佐治駿河守宗貞・二代佐治上野守為貞・三代佐治八郎信方・四代佐治与九朗一成)三代佐治八郎信方は織田信長の妹「於大の方」を妻とし、信長軍に付き伊勢長島の戦いで打ち死にする。
又四代城主は信長の姪「おごう」(小賢)を妻とするが離婚、「おごう」は後に徳川二代将軍「秀忠」の正室となる。佐治氏の後「織田長益」が城主となるが、大野城の水利の悪さから、北方に「大草城」を築城移り、大野城は廃城となった。
(案内板)

「川手(皮手)城」城撮り戦果

2006年12月22日 | 城撮り物語
○川手城祉(土岐頼康)岐阜市下川手(済美高校隅)

美濃・尾張・伊勢3ケ国の守護職「土岐頼康」の居城であったが、1494年の船田の乱(明応4年・5年の二年間美濃の覇権をかけて,土岐氏、斉藤氏など利権を掛け争った混乱期)により廃塵となった。
(船田城・加納城・川手城は川を挟み近い距離にある)
天文元年に「土岐頼康」は鷺山城主「土岐頼芸」に攻められ越前へ退散し、変わって「頼芸」が守護となったが、それも「斉藤道三」によって追われ、道三が美濃の国主となった。
その後美濃の本城は川手城から稲葉城(岐阜城)へ移った。