「加納城」城撮り戦果 2006年12月22日 | 城撮り物語 ○加納城址(奥平信昌)岐阜市加納丸の内 関が原の合戦後「徳川家康」が築城、初代城主には家康の養女「亀姫」の婿「奥平信昌」が十万石で入城。 築城には岐阜城の館を移築した。 本丸・二の丸・三の丸・厩曲輪・南曲輪などを備え本格的な城郭であった。
「犬山城」城撮り戦果 2006年12月21日 | 城撮り物語 ○犬山城<現存の国宝建造物・別名白帝城>(織田信康)犬山市古券65-2 織田信康の子信清の時「信長」に攻められ落城した。 (織田家同族の中で岩倉織田と清洲織田の争い) その後池田信輝・野田信房と城主を代え、天正10年の信長死後、織田信輝の属城となり元和3年「成瀬正成」以降成瀬家が9代居城とし、数年前まで成瀬家の個人所有の城であった。
「宇留間(鵜沼)城」城撮り戦果 2006年12月21日 | 城撮り物語 ○宇留間(鵜沼)城(大沢次郎左衛門)各務原市鵜沼南町7 信長の東美濃攻めにより「鵜沼城」攻撃するが、抵抗が強く難攻する。しかし木下藤吉郎の諜略に対し、これに応じ「鵜沼城」を明け渡す。 これにより信長の配下になるが、信長は疑いを持ち大沢氏の暗殺を企てる、これに気づいた藤吉郎の手引きで逃亡し、無人の城となる。その後鵜沼城は、当時の「犬山城主」池田恒興の管理下となるが、小牧・長久手の戦いの中、天正12年国替えにより廃城となる。 かって小高い岩山の頂上には「城山荘」と言う高級料理旅館があったが、火事で廃業、今も頂上近くに白い建物が見えるが山城へは登ることは出来ない。
「伊木城」城撮り戦果 2006年12月21日 | 城撮り物語 ○伊木城(伊木清兵衛)各務原市鵜沼伊木山 築城時期は不明であるが、永禄7年「織田信長」が東美濃攻略の足がかりとしてこの地を攻撃、勇将「大沢次郎左衛門」(鵜沼城主)を中心とした斉藤方の抵抗に合い苦戦した。 信長は「木下藤吉郎」に鵜沼城(大沢氏)と伊木山城の諜略を命じた、藤吉郎配下の蜂須賀小六と伊木清兵衛が親しい間柄であったため、木下藤吉郎の書状を見せ戦わずして伊木勢を引き込むことに成功、これにより鵜沼大沢勢も衰え攻め落とされた。伊木清兵衛忠次により守られてきた、伊木山城も主人の池田輝政の三河吉田城転封になり、伊木氏も離れ、廃城となった。
「三井山城」城撮り戦果 2006年12月21日 | 城撮り物語 ○三井山城(土岐弥一郎)各務原市三井町2丁目 三井山(標高108m)の頂上にあり、最初の城主は土岐忠八郎であったとか、土岐氏の家臣で三井郷の領主が三井弥一郎が築城したとも言われる。 築城にあたっては山頂にあった神社を山ろくに遍座させたという、光胃腸の御井神社と上中屋敷の天神社と言われる。 美濃国内で守護大名の土岐氏と守護代の斉藤氏の内乱が起きたとき、尾張の国「織田信秀」(信長の父)が天文17年に攻め込み落城し廃城となった。(説明板) 頂上からの眺めは雄大で木曽川の向こうに広がる濃尾平野や小牧山、北には稲葉山が展望できる。
「古渡城」城撮り戦果 2006年12月19日 | 城撮り物語 ○古渡城址(織田信秀)名古屋市中区橘2丁目東別院境内 天文3年築城、城主「織田信秀」は「織田信長」の父で那古屋城を信長に譲り、ここに移った。 この古渡城で信長は13歳の元服をしたと伝えられる。 その後天文17年「信秀」は末森城へ移り廃城となった。<説明板>
「曽根城」城撮り戦果 2006年12月18日 | 城撮り物語 ○曽根城(斉藤利三)大垣市曽根町1華渓寺境内 曽根城は揖斐川の支流平野川の湾曲部を利用し築かれた平城である。 斉藤利三(春日局の父)は稲葉良通(一鉄)の重臣で織田信長・豊臣秀吉に仕え数々の戦功を上げた、関が原の合戦後大垣城攻略の戦功により「揖斐城」に移った事から廃城となった。
「十九条城」城撮り戦果 2006年12月18日 | 城撮り物語 ○十九条城址(織田勘解由左衛門信益)瑞穂市十九条津島神社 十九条信号を西へ樽見線踏切手前を右折「津島神社」境内に城址碑がある。 永禄4年「織田信長」は西美濃へ攻め入り「墨俣」の砦を固め滞在していたが、斉藤方が軽海西へ出兵し激戦が続いた。 信長は墨俣だけでは充分でないとし、犀川が西で半円を描く天然の要塞をなしている、十九条に城を築き、犬山城主の弟「信益」を城主とした。軽海の戦いで「信益」は戦死し城は焼かれ以後復興されなかった。(説明板)
「十七条城」城撮り戦果 2006年12月18日 | 城撮り物語 ○十七条城址<船木城>(船木頼胤)瑞穂市巣南町十七条256 十七条の集落のはずれ犀川沿いの熊野神社境内に城があった。 城主は数代変わり、享禄年間より林氏の居城となり徳川家康に仕え二万石を領していた。 お福(後の春日局)の夫となる林正成は元亀2年この城で生まれる。 成人し大垣「曽根城」城主「稲葉重通」の養子となり「稲葉正成」と改称しお福と結婚、次男「正定」は徳川家に仕え、旧領十七条1006石を領した。 正定の孫の代で後継ぎがないため家は断絶し廃城となった。(説明板による)
「美江寺城」城撮り戦果 2006年12月18日 | 城撮り物語 ○美江寺城祉(和田八郎)巣南町美江寺165 城址は巣南中小学校の校庭西側に城址碑がある。 和田八郎の子「和田佐渡守」「和田伊予守高成「和田将監高行」と代々土岐氏に従ったが、斉藤道三の台頭により、守護土岐頼芸と軍を構えた。 天文8年斉藤道三方の放った火により焼失・廃城となった。