あきよしブログ

南埼玉郡旧百間(もんま)村 地区と家の古今

熱海療養日記(1)大正二年 

2013-10-16 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

  家の蔵を整理していて、出てきた日記です。書いたのは先先代の正之という人ですが、ほとんど知りませんでした。ただ、優秀な人でしたが、35才の若さで逝って、子供もいませんでした。ということで、今の私がここに居ます。なを、近所に家のある英文学者の島村盛助氏とは、母親の実家ということで、いとこ関係でした。
 再近、朝のドラマや夏目漱石の時代を多く聞くような気がします。丁度、同時代の人の書いた日記になので、改めて私なりに仔細に読んで見たところ、意外と100年前でも現在と変わらぬ書き方をしていて、気持なども同じだと感じています。この時代にはこの人物を通して見ているようで身近に感じるようになりました。
 日記は大正二(1913)年で正之30才の時に書いたもので、今では差し障りありそうなところもありますが、すべて原文のまま載せます。、読み取れない文字や、ここに表示できない文字もあり、意味不明な部分もあります。この熱海にて作った「忘れ易き文字」というメモ(冊子)がありました。

    
 正之日記     正之(左)兄弟
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     大正版 静岡縣・神奈川縣地図

熱海周辺地図

轉地日誌  No.1      小島

          熱海日記        琴月生

大正弐年   十月一六日     曇後雨風

 昨日は終日雨なので此れでは明日もだめだろうと思って居ると珍らしく今朝から晴れて一時はキラキラと太陽の光さえ見え出した。これで出発しようと支度もそこゝゝ午前七時二十五分杉戸発上り列車で浅草に着き腕車で新橋迄一走り丁度間がよく午前九時につき国社津行に間に合った。中食を大船弁辧当で済まし十二時六分国社津着、新橋よりの気本賃二等で壱円以下なり、午後十二時十四分国社津発小田原電車に乗車、運賃二等で三十三銭、午後一時四十五分小田原発熱海行軽便鉄道に乗る。四時三十分頃熱海温泉場鈴木屋別荘に着く。軽鉄二等壱円弐十九銭 但し荷物運賃超過額金十八銭(三貫目超過。二等での一人三貫目まで無賃、一貫目を増す毎に六銭宛)小田原を出るとポツポツ降り出し熱海に着いた時には大分降居た。出迎の番頭と会傘で徒歩別荘に入る。身体非常に疲労し何をするのもいやになった。然し一人で退屈で退屈で仕方ない。何は兎もあれ夕食後、自家と花崎と神田の弟二人へ書面を出すべく書いた。茶代三円、女中番頭へ二円渡す。夜雨尚ほ止まず風強く波は益々高くゴーゴーとやかましいことは夥しい。此れでは夜寝られれむないが……モー書くのがいやになった。然し僕の日程の一たる此の日誌を然も第一日から不勉強では困るから疲労を拊して大奮発で、あらましをかいつまんで書く。されど文章も何も成って居らんのは当たり前さ………
 午後八時十五分書き終わり八時四十五分寝に就く。

十月十七日  金    雨一時晴 浪高し

午前六時半起床、轉地第一日の冷水摩擦は刑の如く行ひ直ち、庭下駄をつっかけて庭前の芝生の上に降りた。幸ひ雨はやんで居たので雨後の露を帯びたる芝生を裾をつまんで抜足で垣根の処までたどりついた。垣の下は直ぐ崖で前を町家の屋根が木葉を散らした様に散在し其の先きは展開して太平洋の大海原。昨日からの浪はいやが上にも荒しくゴーゝゝと鳴りを立てゝうなって居る。空は今にも降り出しそうにどんよりと雨雲に被われて居るが、それでも初島がかすみの中にボーッと見えた。折から一隻の汽船がボーとけたたましく汽笛を鳴らすと見る間にへさきを南の方に向けて出帆した。朝食の時、下婢に聞けば昨夜東京からきた船でこれから伊東網代方面に行く船だそうだ。歩を轉じて庭内を漫歩すれば樹下雨垂れ、首を縮めたる事幾度び。当鈴木屋別荘の庭は大そてつの幾株もあるのは驚いた。能く見れば鉄棒にて折られぬ様支えてあるので悟見した。庭一面、隅から隅まで短く刈り込まれた芝生で誠に青毛せんを敷いた様で気持がよい。兔に角僕は大に気に入いった庭だ。家の庭もこんな風に作りたいと思った。
  ………午後から一時晴れたので此機逸す可かざると直ちに支度して外出した。町を歩くのは初めてで懐に地図は無し行き違ふ人に聞きゝゝ漸くして大湯の噴出口に達した。
 午後三時頃出ると云う話だったが三時三十分になっても出なかった。そこで又盲滅法に歩き出しトウゝゝ海岸に出た。人まねをして浪の打寄せる際に立って魚をつる人を馬鹿面をして見て居た。大きなやつが、かかったと見えて先生大力を出してグッと引くと糸はプッリと切れて何物をも得なかった。海岸轉へに家に歸ろうと思って出かけると浪のしぶきでやり切れない様にどこから左へはいったら行けるのやらイクラ行っても左へ切れる道が無い。極無く小僧さんに聞くと元来た道へ逆戻り・・・何だ馬鹿ゝゝしい。廣告を見て若野屋へ行き地図、熱海案内誌、絵葉書を求め、更に再び大湯の方へ行くと丁度盛に熱湯を湧出し居る處なので暫らく垣の外で見て居た。M学の大学生数名も来て共に見物した。
 その内、又もやポツリゝゝと雨が降り出したので急いで宿へ歸った。歸宅後大に熱海案内誌を研究してコレカラ熱海通となるの第一歩と取掛った。夕食後依然として浪高く遥か沖を見れば初島の燈火が漁船のかがり火か知らないがチラゝゝと数十個の燈火が一列に並んで見えた。今夜は単衣物で寒くない。東京辺の気候と大差あるに実に驚いた 午後七時雲の切間から一寸月が顔を出した。即ち庭に降りて例の垣根近く行くと今熱海着の汽船が赤い色の燈火と白い色の燈下を光らせ汽笛を鳴らして入港して来た。かすかにガラゝゝと云う音が聞えた。多分碇を下した音だろう。岸からは出迎の小舟がかがりをたいて本船めがけて出て行った。

   十月十八日  土    曇
 隣の客が今朝立ったので当別荘は吾輩一人となった。別に話もしなかった居なくなって見れば矢張淋しい午後一時三十分より外出し噏氣気館を見て来宮神社参拝その後の水道貯水場を垣の外から見、引返て変電所、温泉寺、御用邸の前を通り海岸に出て帰って来た時に三時十分 非常に疲労した。
 本日も入浴三回(毎日三回位にきめた)今夜の寝ぎわになって日誌をつけるのを考え出したので眠いから、これで御免を蒙る。午後八時二十分寝に就く。

    十月九日  日    快晴
 今日は珍しく朝から晴れた。熱海に来てから毎日が雨天であったが今日ばかりは心地よく晴れて誠に気持がよい。病人には雨天は禁物だと云う事をシミゝゝ感じた。午前在京の弟からはがきと一八日の毎夕、報知の二枚を送って来た。何れも早稲田三十年祭記念祝典の盛大であった事が記されて居た。又以て自校の自慢と推案するの外無し呵々。今日は例に依って日曜(休重検査日)であるので浴後浴衣一枚で秤台をかかった。然る当地へ来てまだ二三日ならざるに十三貫二銭(出発前は十三貫目)となった。二銭目の増加は大ならざるも僕にはなんだか転地の効能かと思われて嬉しい。早く十五六貫の大男となって見たいものだ。徒然を慰むる為め鈴木屋別荘新築三階の間取図を取って見た。僕の目から見ると余り関心出来ない。何とかまだ良い設計もありそうなものと思った。……午後から散歩に出かけた。大湯前の湯前神社ではいつ行ってみても五六人の腕白小僧が神社の家内に入って太鼓を打つやら騒ぐやらしている。こうなると何だか神様も小供の為めに蹂躙されて威厳を損せはせまいか?少しも有難いと思ふ心は起らなくなるものだと感じた。今日も今宮様の御祭りを見ながら曽我浦まで出かけた。今宮神社は当町の西南海岸の近くあって何とか云う水車のあるそばの橋を渡ると大通、子供相手の商人が数人出て柿、蜜柑、かるめやき、菓子などを売って居た。小共は大勢手織木綿の晴着をきて、ワイゝゝ騒いで居る。少し行くと左側に丸太作りの二間三間位の舞台が出来て今二三人の若衆が敷物を敷いたり幕を張ったりして居た。舞台正面左手の花道(と云ふと大相だが実は幅三尺長サ二間位の花道で舟板の古か何かを並べたもの)には花札が五六枚張り出され金十円何々様、 二床何々様、金五円何々様と云うのがあった右側には人家から垣根の上へ跨いで不正三角形の屋根と何も無い見物席が出来て居た。然しまだ板を並べたままで小供が其の上ではねて居た。僕も馬鹿の標本となって暫く双方ながめていた。気がついて見ると此の粗末な舞台は舞台には三四個の電燈が引込んである。感心な物だ。何々ハイカラだわいと思った。これから少し行くと右手山の中腹に二本の幟がヒラヒラとして居る。然し神社はどこにあるか見えなかった。又見る気にもならなかった。兎に角「田舎の祭り」と云う表情がハッキリと僕の頭にしみ込んだ。これから更に南の方綱代通を行くと左手は見下す様な崖で遥かに熱海の町が点々として一円に見える。尚ほ二三町して熱海トンネル(観魚胴)に達する。ここを出る一人の爺さんが休み所を出して居る。これから先きが錦浦で奇岩老松行くに従って変じ、下は断崖幾十丈、青い水は激しく岩に砕け前方には大島、初島を望み中々景色の良い處だ。追々進んで行くと道は少し上り坂となり岩を切り開いて道路を作った處や石垣で積み上げた處がある少し行くと曽我浦に出る。ここに一軒の茶居あるので先ず一服やった。左の方入江の辺に人家の点々たるのは網代港だそうだ。此邊の婆さんに聞いて案内記にある不動の瀧と云うのを見るといやはや驚いた。谷の落水が一丈ばかり上から落ちて居るばかり。其の下に不動尊の像があるそうだが見る気になれない止めた。岩谷の観音と云うのはここのぢき下で舟なれば行けるが上からは危険で行かれないそうだ。聞けば此の観音の洞には眞水の池が海中にあるとの事だ。是れも行って見ればつまらぬ者だろう。前にはこんな立派な道はなかったのだが本年四月に初めて熱海網代間の新道ができたのでこの前までは山道で峠を越えて僅かに人が通れるに過ぎなかった相だ。文明と云うものは実に難有いとつくゞゝ思った。
 僕が茶居に休んで居ると熱海の方からテクゝゝと一人の歩兵二等卒が外套を巻いてかたにかけメリンスの風呂敷包を二つさげて(御土産だろう)やって来た。ハテ何処の兵隊さんだろうと思って見て居ると茶居の前にくると婆さんに対して不動の姿勢を取り挙手注目の敬礼をして何だか話して居た。婆さんは前垂で手を拭き乍ら「ハテどなた様で…?」と「何々の何々で…」「ハハーそうですか、誠に御見それ申しました。何日のお休みで?」「一週間の休暇を貰って来ました」「そうですかマー御かけなすって御休みなさい、マーほんとに暫らくで御戻りましたね…」「ハイ難有ふ又歸りにゆっくりと上ります…] 又丁寧に敬礼して出て行った。
 僕は思った。自分も兵隊の時には能く世間の人に向って挙手注目の敬礼をしたものだ。「如何なる人にも脱帽して敬礼をする必要はない。否軍人としての敬礼は挙手注目の外に無い」と考えて居た。又のみならず軍服を着けた時には今でも大抵脱帽の敬礼はしなかった。然し今日はツクゝゝ感じた。如何に軍服を着ても軍人以外の世間の人に向かって挙手注目の敬礼をするのは自分はさ程にも思わないが、傍目で見ると甚だ高慢ぶって見えて映る感心出来ない者だ。殊に今日のは一茶店の婆さんに対して恰も中隊長に敬礼する如くに堅くなってやったので益々滑稽に見えた。今から考えて見ると二週間計の前に粕壁で丸八へ休んだ兵20の中隊長某氏は歸る時に脱帽して家の者に礼をして行かれたが、此の方が殊に丁寧らしくて(少なくも一般人の目から見て)穏当で好いと感じた…… 
 此邊から引返して歸途に就いた。トンネルを出ると一五六の二人の少女がすそをからげて赤いメリンスの腰巻を蹴出して睦ましげに行くのに行き遭った。
 信次に宛て繪はがきにて返事を出す

   十月二十日  月曜    快晴  浪穏
 朝から馬鹿にキラゝゝして珍しい天気となった。午前六時四十分起床。歯を磨き乍ら庭に出た。今しもさし昇る旭が海面に輝いて眩しくて、まともに見ることも出来なかった。午前九時前に下り一番軽便で湯河原から御江戸の客が小供二人をつれて伺勢五六人でドヤゝゝとやって来た。そして僕の御隣の室に陣取った。小供は天性を発揮して急には取るやら走るやら泣くやらわめくやら一通りの騒ぎでない、イヤハヤ困った者だわいと思って居ると、幸に午後湯河原に歸って行った。又々別荘は僕一人となった。結局静養には此方が結構だ。午前九時頃に川島と桂子とから封書が来た。十一時頃に宅から小包が届いた。開けて見たら仙台の堀越君が祖母に送って来た葡萄かんを宅で食べずに殊更、僕に送って呉われたのであった。実に此の温情のこもった菓子は非常に僕の心を㐂ばしめた。早速二つ三つ御馳走になった。気のせいか甘かった。直ぐに宅(桂子宛)と川島へ宛てて封状の返事を出した。良平にもはがきを出した。
 午後四時頃国民新聞が届いた。実に今日は郵便や小包の来る日だった。こーして方々から手紙が来ると何となく嬉しくて心強い様な気になれる。午后二時頃から散歩に出かけた。今日は極く手近で汽船発着所まで行った。幸に一隻の汽船が来たので客や荷物の積下しを見て、それから引返して釣堀へ行き庭内を散歩した。写真で見ては大変良い處だと思って居たら、矢張つまらない池には鮒鯉が沢山居て真中に五六尺の噴水が吹て居た。植辺の向ふに家はあるが誰も何とも言わない。すぐに此処を出て家に歸った。
 今日も近宮様の御祭だそうで一日太鼓の音が聞えた。

 十月廿一日  火曜    半晴后曇
 体温を取ってから起きたら七時二十分になった。朝は非常にねむいので中々早く起きられない。今朝は洗面するとぢきに御飯を持て来られたので、せわしかった。午前中此處の家の間取図を三枚清書した。すきな道だから面白い。午後一時から出かけるて、小學校方面から陸東第一衛成病院熱海分院から院の前に出て山道を通って汽船発着所に出て、又今日も釣堀に入った。熱海に来る時、軽便の中で小田原から一緒に乗った二人づれのチャンゝゝ婦人が釣って居た。一匹も取れなかった。当り前さあんなのろまなチャン女につられるような魚は日本には一匹だって居やしない……それから海岸づたいに本町に出て大湯の方を通って家に帰った。丁度一廻りわけさ……熱海へ来てから常に感じる事がある。それはここの女と小共であるが…女は一般に言葉は先づ御江戸なまりで余りききぐるしくも無い(但しよそいきの言葉)がみなりと来たらドーモ成って居ない。殊に美人とまでは行かなくもいい女だなと思ふ様なのこは まだ不幸にして一度もブッツかった事がない。それから小供は殊に女の子共の学校へ通ふのや町を遊んで居るのを見るとまるで片田舎のがき供と同様で(片田舎には間違ないが)衣物の品質は勿論の事。からと云ヒきかせたと云ひ、髪の格好と云ひ面構と云ひどこといって一つでも取り處がない。殊に出来もまづいが皮も悪い。隋分東京から立派な人々が保養に来るから少しは見様見まねでモット見能く出来そうな者だ。但し顔の不出来は致方ない。これは宜しく熱海の夫婦達は尚一層勉強してモー少し甘くでっち上る工夫が必要である。次には何処へ行っても蜜柑の木のある事だ。これは気候の温暖なる為めであるが実に能く結果として居るのは驚く。又ソテツの大きいのがあるのも感心した。シレニアムは何処の家にも土間などへ植えて、よく青々にそして花が咲いて居る。要するに冬が大変暖かであるのが風に原因らしい。
 今日は母温のミチシ君から、かなばかりで書いたはがきが来た。いつも乍ら私の病気について同情してくれるのが何より嬉しい早速返事をかいて出した。家から送って呉れる国民新聞を見て。すぐに送って呉れる為めか昨日の新聞が今日の午后三時頃に見られる。御手紙も恐入るが父御の恩沢もありがたいとつくゞゝ感じた。今夜はすっかり曇って眞の暗黒で漁火も今夜に限って余り見えない。浪の音ばかりだんゝゝ高くなる。明日はキット雨だろう、困った者だ。

  十月二十二日  水曜    曇 雨 夜半晴
 朝から一面かき曇って誠に気持が悪い。午后になったら一時は大雨となったが夜は晴れて星が雲間からキラゝゝと見えた。昼の中は外出が出来ず終日室内にとぢこもって新聞や小説を読んで暮らした。当家では毎日男女の下ぺ一同で大掃除をして居るので今日は僕の前の硝子障子の掃除に取掛ったのでカタゝゝゝゝ枕元でされるので実に終日いやな気持がした。散歩には出られず家に居れば騒々しいし何となく誰れも一様に感じる「旅の徒然」といういやな感じを覚えたそれと同時に思ひは種々に馳せて何だか急に故郷が恋しくなった。イヤ故郷でなくも東京でもよい……アノ今鳴った軽便の気笛を聞くにつけすぐあれに乗って小田原から国社津を経て気車に乗って新橋に行きたい。そして弟や靖に會って色々話しをしたい。すきな品物を買って見たい。…ーと云ふ小供の様なつまらない心がムラゝゝと起った。…ー実につまらなく成ってしまった。クソッ湯へにでもはいって一つ元気をつけてやろうと飛び起きて湯に這入った。矢張りなをらないのみならず何だか頭が重くなって熱が出たようだったが、大した事も無くてすんだ。まだ例の神経衰弱がなをらないわいと殊に感じた。夕食後少し星が見え出したので、はがきを出しながら一寸散歩に出た。通りも暗くさみしいのでつまらないから三十分ばかりで歸って来た。いつになっても此の家は僕一人で何だか少しいやけが差して来た。早く御正月が来て早く雛の御節句がくればよい。否や早く夏が来て此度は伊香保か塩原に行って見たい。

 十月二十三日  木曜    曇
 午前中は当別荘第一号館(残ず吾輩の僉名せる所也)の間取図を製図した。午后からフラゝゝ出掛けた。実は西洋到煙草が吹て見たくなったので芦沢や若野屋やそれから鈴一商店など、ありそうな洋服店できいて見た。處が煙草は一つか二つあるが、かんじんな煙管が無い。拠無く止めた。
 それから海岸へ出て漁師が魚を釣るのを見て、あちこち町の内を小一時間ぶらついて居た。何だかつまらないので御用邸の裏道を通って田浦に出てだんゝゝ上の方へ行く気もなく行って見ると道は益々上り坂となり遂に丸山の麓へ出たので日頃から行って見たいと思って居る矢先であるからこれ幸ひと此山へ登った。上るは八畳二間位な家が一件立って居るが人一人居ない。イヤモー呼吸の切迫する事夥しい。誠に時計を出して見ると計って見ると一分間百四十打った。暫時に朽ちはてた腰掛に腰を下ろして休みながら前方を見るとすぐ前に松の大きいのが二三本あって(然かも大事な處にあって)視界を遮って居るには少なからず閉口した。これさいなければ熱海の町はは勿論の事、海岸一帯から初島は手に取る様に見えるものを……なぜ、こんな木を切らずに置くのか知ら……と思った。イヤ不平でたまらなかった。それから歸りがけに(二度と来るあてもないから)一軒家をのぞいて見ると中々凝った普請だ。柱は皆丸太杉(皮付)で濡縁は径一寸位の丸太たを並べたもの、屋根は草葦で、それでも障子だけは硝子のはいった紙障子が立ってある。その東側に一間ばかりの高さの瀧が落ちて居る。こんな□山の頂上 注(艸太田)に瀧のあるには驚入った。あちこち土をまくって道を造り此処の御客を待って居るらしい。丸山はつまらなかった……
 それから、ここを降りて梅園に行った。僕全体熱海各所なるものを訪ねて来たが、常に錦浦の物は、これぞと云って感心した處は一つもなかった。皆行って見ればつまらない處ばかりだった。處が今日は驚いた。実に梅園は熱海第一の名所であるとつくゞゝ思った。第一面積が中々廣く土地の起状に富み中央に岩を噛む急流があって、或は瀧となり、或は瀞となり、曲折千変万化、之れ架するに木橋、泥橋あり庭一面に梅の古木繁り遍々には流れに望んで紅葉が今や色づいて見える。其の間に二三軒の休茶屋があって何れも客待ちの準備に忙しい様子…梅の木は何れも古木で余り大きいのは無いが皆こけが一ぱいについて居る。まだ葉が落ちきった位の時だから花処か蕾もふくらまない。何れ時が来て此の花が一パイに咲いた時にはさず見物だろうと思ひやられる。処が此の見事な梅園の中に今度熱海迂回線が出来る事付ての鉄道敷地の中枕が何本も打ってある事は少からず驚いた。聞けば追々敷地買い取りも進捗して居るそうだが若し此の園の中央を鉄道が通る様になると丁度二つ分割されてしまうので、それこそ貴ぶべき閑静をやぶるは勿論誠に没趣味なものと成りはせぬかとそぞろに思れた。
 あヽ実に梅園は僕の気に入った、又時々ここに技を引く事にして、今日は先ず歸る事にした。それから来宮神社の前から停車場へ行く新道を通って見ると、此の辺一帯非常に見晴しの能い處で至る処新築別荘で満たされて居る。それら別荘の内には建築法や家の格好が殊に僕の気に入ったものがいくつもあった。こんな處にこんな建築の別荘を持って毎冬転地に養生したらドンナン愉快だろうと人の事ながら思ひやられる。午后四時半歸る。今日の散歩は降らず照らずの御天気で誠に面白かった。歸って見たら隣りに五六人連れのすれっからしの御客が来て居た。
 父から封書が届いた。例の一力才生命保険へ私の保険料半ヶ年分金四十四円二銭振込の通知だった。良平からも見舞いの手紙が来た。
 夜は隣から義太夫があった。さっき来た客達はすぐ前の大倉別荘の連中だそうで、夜になってから花房のおやぢと家内とが来て夕食後先づ花房舞の三味線で大倉の客が太十一曲を謡った。イヤすっかりあてられてしまった。それでも師匠は「どうも此前聞えた時とは大変な御上達で全く驚きましたよ。節と云い、すじと云ひすっかり本物です」と皆んなで御だてるのを御本人本気にして喜んで居るから御目出度い物だ。一段ドウカコウカ済むと此處は花房師匠が謡った。此奴も師匠とは名ばかりで素人に毛のはいた位な者ドーマ声をはり揚げて兎に角、会甫一段仕上た時に午後九時五分過ぎだった。徒然な折とて三味線の音だけでも大に心を慰めた。すぐ床を伸べて貰って寝る。

   十月二十四日  金曜   晴
 よく晴れたけれど浪高し。隣の御客は舟を仕立て錦浦出掛る計画で女中に命じた。船頭四人は一隻金弐円五十銭の内(時間に限無し)處が浪が少し高いのでとてもお嬢さんには乗れまいと云ふので忽ち撤回となり中止となった。それから皆連れ立って散歩に出掛けた様子だが、午后一時僕が出る迄に未だ歸らなかった。
 花崎から先日の手紙に対する懇なる返事が届いた。いつもながら父上様の親身の及ばぬ御親切には涙がこぼれる様だ。信次からも赤羽からはがきが来た。昨日父(百間の)から来た書面の返事に旁近況を通知すべく封状を出した。又信次に宛て買物の依頼の手紙を出した。
 午后一時から伊豆山温泉場へ行った。片道十八丁と聞えたから一度の積りでテクゝゝ歩き出すとぢきに伊豆山に着いてしまったのには驚いた。陸軍病院の先きは幾らならずして伊豆山なのだ。尤も伊豆山も熱海町の行政区域なのだから……先づ七百何十段とかある石段を五丁登て伊豆山神社に御詣した。イヤハヤくたびれた事は甚しい。石段を登るのが僕は何よりもつらい。第一胸騒ぎがしてドンゝゝゝゝ動脈がはげしくなって居ても立っても居られなくなる然し途中まで登ったものだから一思いにヤットの事で頂上(神社のある所)まで行った。これも骨折損のくたびれもうけで実につまらなかった。社の庭を一まわりして見たが唯拝殿の右手前に池があって水が満ちて居た。早速引返して降った。処が今度は登る時より尚わるい。或程いきは切れないが石段がすべってころげそうであぶなくて仕方がない。
 やっとの事で往来へ出て線路を踏切で尚下へ三丁降り海岸へ出て温泉宿の前を通って見た。僕の想像とは大分違って居て実に伊豆山と云う処はつまらない處だ。能くこんな處に健ちゃんは二週間も辛抱したなとつくゞゝ感じたよ。私では三日も居られない。熱海の十分の一もありはしないもの。第一往来から海岸へ出るまでの道の(石段)危険なことといったらとても御嬢さんたちには通れない様だ。急激な傾斜の處へ自然石を並べた石階と来て居るから実にあぶない。温泉宿は此の海岸通り前に並んで四五軒あるばかりだ。
 然し折角来た者だから能く見て行かうと思って先づ右の方が探検に取掛ると「海門橋」と云う小さな橋がある。それを渡るとハヤ崖に行き止りで家などは一軒もない今度は右の方へ進むと道とは云うものの実は丸石を積み上げてせめんをぬった言はヾ宿屋の軒の下を通るので巾も五六尺しかない。一町ばかり行くと「さがみや」につきあたる。これで御終らしい。何とつまらない處ではナイカと来たのがくやしい位だった。兎に角、さがみやに行って茶代でも奮発して何が食い度く無い料理の二三品も取ってご飯をたべて御湯に入って緩くり遊んで歸ろうと云う計画で玄関に向って居った。
 處が番頭か主人か知らないが女中と二人で上りはなに立って居ながら僕の面をじロゝゝ見て居て「いらっしゃい」とも言わない。何だか少しばつが悪くなった。そこでコッチもすまし込んで上がれとも言わない家へ、ツカゝゝと上って行った。無言で上りは上ったがドッチへ行ってよいか分からない、少しチュウチョすると其の男が「御湯ですか?」と聞く「然り」と答へたり「この廊下を真ぐに入らっしゃい」と言ったので其の儘「千人風呂」入ってしまった。ハテサテこれでは失費はないが少しあてがはづれた。疲れた處だから兎に角見晴らしのよ坐敷に通って御産一つ召し上ってから一風呂御召しになると云ふ考えであったがすっかり違ってしまった。然し僕の方から「コレゝゝにして呉れと」と云う事は第一来た時に最前の取扱を受けた以上「死んでもこんな家で銭を費ってやる者か」‼と云う気になる。其の気だから緩くりと千人風呂につかったり湯瀧に肩を打たせたりした。減に此の風呂場を見ると浴室の大サが三間半に十一間の建物。これで浴槽の大サ三間に六間あった。深さ僕の乳の高さ位で周囲も底もたヽいてあった。それに湯滝が三本二間位の高さから落ちて居て之にかかる人は階段を降りて六尺ばかり下に行って、から様に出来て居る。約二三十分這入ってから出た。それから二階の方を見て玉突場を聞えて行って見たら戸が閉めてあって見えなかった。一般に建物の粗末できたない事と言ったら甚だしい。鈴木屋別荘綺麗な家に居た目から見ては実に成って居ない。丸で熱海の海岸通りの小さな温泉宿に行った様だ。先づ湯にもはいるし、これで別□見る者もないので歸りかけた。そこで此までだまって歸ってやろうと思ったが、玄関に男が居たから(以前の男)いくらかと聞えたら五銭ですと答へたから五銭置いてサッサと歸って行った。「有難う御座います」とも何とも言はなかった。湯銭の五銭は決して安くはないと思った。然し面白かった。一円や二円は使ふ積りで来た者が僅か五銭で大威張で千人風呂を一人占めにして御歸りとはアー安い者だ。と思い返した。==そこで僕は商人の御世辞なる者の非常に必要である事をツクゝゝ感じた。若し僕が玄関へ這入った時「イラッシャイまし サヽどうぞ御上り下さい。御花や十番へ御案内………とか何とか言って御茶よ御菓子よと丁重にもてなされると元来湯だけで済まそうと思って来た人でも(何も食わないにむせよ)いくらか茶代を置て歸るであろう。まさか五銭では歸れないから……處が客が来てもウンダトモスッタとも言われないと「糞っ馬鹿ゝゝしい。人を何と見て居やがる。此れは御客様だぞ」と云う考えになり料理を取って茶代でも奮発してやろうと思った人でも「ナーに馬鹿らしい」と云うので尚更こんな處では一枚も余計に費はぬ様になるのは敢て僕ばかりでない世間の人誰でも同感であろうと思う。――実に商人殊に宿屋の様な客商売の家ではこの掛引きが最も大切なことであろうと考へられる。
 さがみやを出てから往来へ出て、とある茶店で腰をかけ店先にある柿を三つ四つ食って此の家の御上さんと暫らく色々の話しをした。さがみやと違ってこの御上さんは中々如才ない。
 軽便には間があるので、又歩いて歸った。歸りは軽便の線路を通って来たら尚更近かった。熱海に着いてから(午后三時半)未だ早いので町内を散歩した。いつ見ても熱海の温泉旅館で建物もよく坐敷の見晴のよいと思ふのは玉久別荘、露木、玉屋別荘などだ。玉屋別荘は最も海岸に近く余り上等の家では無いが二階はたしかに見晴らしがよいと思った。建物も余り古くない。玉久別荘は大湯の前で新築三階で立派な者だ。露木は勿論一二を争う旅館だけ建物も珍しく三階の大な者だ。此の頃でも露木には中々客が居るそうだ。
 今夜は東隣り一七番に一人客が宿った。大倉組の一人だ。伊豆山の湯は非常に冷えると言ふが実際だ。風呂から出て三十分ばかり立つとゾクゝゝと身体中が冷えて来た。そして夜分になってから何だか肛門が少し痛み出したので見ると伊豆山の湯は痔の気のある人には頗る有害だと悟った。


  当時の冊子
当時の冊子です。この冊子は私が痔の手術でお世話になった先生にあげてしまいました。また、この日記の転記作業のほとんどはこの時の入院時に行いました。

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