あきよしブログ

南埼玉郡旧百間(もんま)村 地区と家の古今

熱海療養日記(2)

2013-10-15 | 熱海療養日記 大正二年(1913)

轉地日誌  No.1    熱海日記(2)

   十月二十五日  土曜    晴
 今日から又暫らく「ピラドミン」の服用を中止した。十日ばかり持続した為めか少し皮膚に発疹した様だ。終日何処となく気持ちが悪かった。午后散歩に出たが非常に足がだるくて歩くのがいやになった。トンネル迄行かうと思ったが止めて和田磯で地引を引いて居るのを見て居たが一個僅かにカマス一六尾に過ぎなかった。漁師見物人を顧みて曰く「コレダカラ漁師は止められないね!」と皮肉った。取れる時には随分取れるのだが此の頃は一体に不漁だそうだ。
 熱海も廣い様で狭いので僕が一週間か十日位の間に大抵は見て終ったのでモー行く処が無くなってしまった。これからは又一つ處を幾度もくり返すより外は無い。
 夜食後日誌をつけながら海上を見ると空より星がキラゝゝと光り海面には漁師の漁火が無数にきらめいて居る。微風徐に吹き浪の音殊に高し。今夜は非常に寒さを覚える。早く寒くなって客がふいればよい。

   十月二十六日  日曜    快晴  暖かし
 朝の内はドンヨリとして居たが九時頃から非常によく晴れ昨日と異って、なかゝゝ暖かく実に小春日和だ。午前中乾潮(ヒケシオ)の海を見るべく海岸に出た。それから今井写真館へ行って手札を取った。初見はイヤに写真屋が色々私の首や衣物をつくろうから「コレデ面白くない、却て自然の方がよい」と云って彼れの干渉を受けずに出来たなりの姿勢で新聞を見て居る処を写した。ピオピーで三枚一組五十銭だった。塩瀬で蒸菓子二十銭を求め歸ってから茶を入れて食べた。今夜から熱海娯楽部で(銀行の二階)結域孫三郎とか云う人形芝居がかかるそうだ。行って見ようかしら。
 庭を通ると「お早う御座います」と云って此の家の主人がよく挨拶するが、主人と云うのは名を鈴木良三郎と云い年は今年三十三とか(召使婢御竹どんの話)丈けは先つ大きい方で小肥りに肥って顔は少し赤味を帯びたきれいな角ばった形ち眼はパッチリとして怜悧の相あり髪はいつも短かく刈って居り衣物をダラリと着て、柔らかい羽織を引かけて麻裏草履をはいて、大工や植木だの指図をして居る。細君も女としては少ない位背が高くすらりとした、やせすぎな人だ。顔も細面てで年は聞い見ないが三十近いだろう。御竹さんの曰く当家の御主人夫婦はつれそうて十三年にもなるが未だ一人も子共が出来ない。色々な事をして見たり病院へも行って子宮の手術もしたが矢張出来ないと云う話だった。そうとするとやはり彼の樌田友作の言い草では無いが「金が敵か知らない為か……云々」で誰でも相当な人は皆内腹掻把位する者と見えると同情に堪えなかった。今日は日曜なので例の通り午前十時単衣一枚となって体重を計ったが別状増加もしなかった。矢張り十三貫二百五六十匁位だ。此の三四日植木屋が七人這入って手入れをして居る。此辺の松は凡て雄松なので木振りなぞは成って居ない。唯真すぐに一本立ちになって、それから四方に短かい枝が出て居るばかりだ。それは植木屋が手入をするのも、家の方の様に丸太をなげかけて、それに梯子をたててのるので無く、直ちに木に登って枝に足をかけて手を伸ばせば皆届くので至極い間便な者だ。そして手入れの方法を見て居ると先ず親方が木に登って鋸で枝をすかし更に鋏で枝を切り其のあとで弟子共が指で手入れする順序だ。處で此の親方が暫らくやって居ると降りて来て坐敷の方から見ながら煙草を一プク付ける。それから又登って仕事を始めるので、丁度植木屋の善公がよくやるのを見受けるが、何処の植木屋も同じ者だと思った。此家では茶道具に名産の木製の茶たくや土瓶敷を用ひるが全体木だから軽い處に持って来て水がこぼれると茶碗や土瓶の下に付いて共に中途まであがりパタンと下に落ちる。それが一度や二度で無く毎日度々だから実にやり切れない。こればかりは使ふ者で無いと思った。今日隣へ(一五号)へ御客が来た。二人の男連れらしい。一七号には大倉道に来た一人でまだ宿って居る。無口な静な男で何とも言わない。能く手紙を書いて居る男だ。少し嘆息ようだ。時々喚気館に行って吸気をしてくるらしい。夕方になって又二組の客が来て大分賑かになった。今日二枚折りの屏風を僕の室の入口に持って来た。下手な白菊が書いてある。それでも表装はヘリ金だぜ。夕食後七時半頃から結城弥三郎一座の糸あやつり人形を見るべく熱海娯楽部へ行く。隣の客は一人で疾くに出掛けた様子。僕が行った時には場内は殆ど満員で丁度一段目塩原多助の三場目祝言の場から見た。木戸二十五銭は余り安くないが、それでも熱海軍人分舎で忠魂碑の外面を造る為めの寄付興行とも言ふべき者であると聞いて見れば我儘も出来る。客は今浴客の少ない季節であるから大部分は土地の者が多くは婦人子供であった。右記番組に見る通り補召として例の熱海の義太夫師匠、花傯太夫が山の神の才糸に三味を引かせて見呂、上下形の如クチョボに厳然と和へて二幕ばかり語ったがイヤモー高□に出てはカラキシ駄目で声が少しも通らず語ってる御当人より見物の方が冷汗が流れる様だ。あれでも此間鈴木屋別荘へ来てデカイ事言って居ると思ひば、おかしくて御臍がお茶をわかしそうだワイ。又□体のチョボ富竹登太夫というのは花傯とは反射で殊に声を能く通しチョボとして却て声の抑揚がある處なぞは素人だましは至極結構であるが、吾輩が聞いて居ると時々義太夫を脱線して歌を歌っている様に聞えた。これも余り感心出来ない。それから大切な役者だがドーモ、コワイロが小さくて能く聞き取れない。否寧ろカメの中へ首をつっ込んで物を言って居る様だ。尤も糸をあやつる絡めては着手仕方にに気を取られるのは当り前だろう。要するに人形の使い方は中々上手にやった様だった。僕には「甘い」と云うよりも「面白かった」十一時五分はねる。番頭の繁さんが提灯をつけて御迎に来て居た。当日から向ふ三日間あるのだが初日の番組左の通り

 △一番目                                                        役 割
 塩原多助                                文家多左エ門、塩原多助                  孫三郎
            塩原松 坐敷の場              、妙角実ハ又旅●角
沼田通小松原の場    客 再次、道連小平、五八              小舟遊
 返し庚申塚の場              、角九エ衛門
塩原税言の場       後妻、おかめ、原再三郎、玄菴       結治
返し馬小屋前の場           娘お栄、円次郎                                孫若
横堀山中草菴の場              惣右衛門、仁助                                結三
仝山中山内丹三郎殺し       お六                                                 糸城造
        塩原御長家の場
         四目条屋より桜馬場

△中幕
 本朝二十四孝
    御 殿 場                         八重垣嬢         孫三郎 
                                                        譲 信          小船遊 
  松の庭狐火の場                         六 郎          結治
                                                        勝 頼          孫若
                                                        ぬれぎぬ         結三
                                                        小文治          糸城造
△大切
 恋火鹿子
    八百屋の場                       御 七               孫三郎 
                                                        お 杉             孫若 
    火の見の場                         久兵衛             小舟遊
                                                        武 平             結治
                                                        吉三郎               結三

                                          長唄 はやし  連中
富□國登太夫                     補助       富竹花傯太夫
鶴澤 勇六                                       鶴 澤 方 泉

 それでも僕の前に居た二人の婦人は塩原氏長家の場で多助に同情してか盛んにハンケチを目にあてて、シクシクやって居た。寧ろ気の毒な位だ。コレダから活動を見て泣く人があるのも無理の無い筈 阿阿。

   十月二十七日  月曜    曇風  寒し
 今日は朝から曇天で風が少し吹いて馬鹿に陽気が寒かった。午后一寸大湯まで行って見たが出て居なかった。こっちへ来てから毎日の様に大湯の前に行くが未だ来たてに一度見た切で其后運悪く一度も湯の出て居る時に出会った事が無い。通りを一まわりぶらついてから、すぐに歸って来た。
 午后四時過ぎ国民新聞と一緒に桂子からの手紙が来た。父上様が数日来食欲不進の也、薬を送って貰いたいと云うことであるから、すぐにタシコン酸オレキシン0六、重曹二、0乳糖一,0 分三包服用を六日分一八包こしらえて小包で出した。それにこまごまと手紙を書いて小包をこしらいて出かけたら丁度午后七時になった。すぐ郵便局に行って差し出した。
 こんなに急いで一時も早く小包の届く様にと思ひばこそ夜分出かけて行ったので局員に小包発送は何時ですかと聞えたら明日の午后五時発と云ふ事であった。イヤイヤこれでは明日出しても同じ事だった。知らぬと云ふものは皆こんなもの………
 歸りがけに下駄屋で麻裏草履を一足買って来た。熱海と云ふ處は道が石がゴロゴロして坂道で下駄のいたむ事甚だしい。買って来たばかりの駒下駄を大無しにしてしまった。然しまだ今のうちなら他町行きにはけるからいよいよ草履を買って散歩のときには之をはくことにした。第一歩きよいから……今夜もあやつり人形にさそわれたが昨晩見たので沢山だから止めた。隣りの客は先日の大倉連中が今日又やって来たので、共に今夜もあやつり見物に出掛けた。よく度々行く人だと思った。夕食の時に御歌さんが私にまだ あやつり人形はドンナ物か一度も見たことがありません。と云ふから、そんなら御客様が出て行って用が片付いたら行って見て来たらよかろうと云ったら、トテモだめよ!と云ってあきらめて居るらしかった。矢張雇人はつらい者だと思った。そこへ行くと田舎の女たち(奉公人)の方が余程楽だ。某居などがあれば夜はキット行かれるに相違無い。家では木戸銭まで呉れて皆なを見にやったでは無いか。昨夜遅かったから今夜は一つ早寝としましやうワイ………
 午后九時頃から雨がポツポツ降り出して来た。今夜は行かなくて善い事をしたと思った。

   十月二十八日  火曜    曇  微風  浪高し
 天気予報には晴とあるが朝からドンヨリと曇って今日も中々寒い。
朝、伊坂姉上様から見舞の御手紙と信次からの煙草を贈った事、清からカステラを御父上の代で送って呉れた手紙が来た。一時間ばかり立つと(午前九時頃)小包が二つ一緒に来た。嗚呼今日は何たる吉日ぞや。私にはこーして居ると手紙や小包の来るのが何より楽しみだ。花崎からは風月のカステラ大釜一箱(小包料二十銭)送って呉れた。いつに代らぬ御親切には誠に感涙にむせぶの外は無い。伊坂の姉上さまも私の為に神仏に祈願をこめられ御礼まで貰って之れだ由、実に他人に出来る事でない誠に感謝の外無し。すぐに返事を書いて花崎と伊坂へ御礼の手紙を出した。信次と清にも同封して出した。
 今日は待ちに待った西洋到煙草とパイプと煙草入とが小包として信次から届いた。見計らって安い者と注文なので清と二人で行って買って呉れたそうだが中々気に入った物だった。煙草は「リッチモンド ミキステューア」(The Richimond Smoking Mixture 1/4 /b Price Y.100)でパイプは四十五銭 煙草入は和製のゴム製で七十五銭計壱円十銭内十銭割八金二円で出来たそうだ。(神田小川町川手商店)サアこれで仕度は出来た。
 今日午后から手紙を出しながら昨夜買った麻裏草履をはいてハイカラパイプを口にして御散歩に出かけませうと楽しんで居ると、午后から折悪しくも今日に限って雨が降り出した。何のことだい。うらめしさに天なる□ゝゝと恨んで見ても追付か無い。その内止んだら出掛けよう。
 午前二階で大倉達の一人十八九のハイカラさんが薩摩びわを初めた。上手だが下手だか知れないが色香たっぷりな細い声を出した。盛にパランパランをやって居た。御竹さんが「御二階へ行って聞いていらっしゃい」と言ってくれたが、何本も手紙を書くので中々それ処の騒ぎでは無い。又ノコゝゝとそばへ行てあんな奴原に頭を下げて下手なびわを聞くのも男が降ると思ったから止めた。
 四五日以前から身体中へポツポツ汗草の如き発疹がして痒くて仕方が無い。湯に入れば塩気がしみて痛む。実に閉口した。多分ピラミドン連服の為だろうと思ふ。此薬を服むと熱は大に障るが副作用があるので困る。二三日前から暫らく服用を中止した。
 順天堂で手術時もそうだが、特に近頃は頭髪が非常に抜ける様にいやな気持だ。どんな原因だか花崎の父上様に手紙で伺ってみた。まさか病気の為めに抜けるのではあるまいが兎角肺患者に頭髪がダンダン薄くなると云ふ事だから僕もそれとすれば心細い。
 夕方になったら二階で又もやびわをどなりだした。僕にはあの声を聞くと何だか身を切られる様なイヤな気持ちがする。今日階段の処で一寸御面相を見たら驚いた。丈けばかり大きくてさっぱり感心しない……新しい女か?それとも古い賎しい女か?能くも臆面も無く男ばかりの中であゝもどなれる者だと思った。
 夕食後、又々今夜もあやつり見物にみな出掛けた。一七号の客は初日から終わりまで丁度三日間かかさず毎晩行ったのは少なからず驚いた。尤も今日は最愛のワイフとベローが来た為であろう。僕だけは今夜も行かずに一人つくねん浪の音を聞いて茶をいれて今日送ってくれたカステラを御馳走になった。突然今夜も亦雨が降り出して来た。ナンテ間がいいんでしやう!

   十月二十九日  水曜    半晴
 「大湯がわいたそうですお出掛けになりませんか」と女中からの御中信により今日こそはと思って忽ち出掛けた。昨夜の雨も今朝名残無く晴れたので先ず草履のはきぞめをし
それから例のパイプの吸い初めと相成った。噏氣館へ行ったのが午前十時頃だ。直ぐ噏氣券(五銭)を買って 噏氣室に這入った。丁度今盛んに大湯の奮出して居る処なので、室の中は湯気で一ぱいで何物も辨ずる事が出来ぬ位、其の中にすかし見れば二人の人がはだぬきで吸入をして居る。僕も入口から二番目の穴に陣取りハンケチを首にかけ羽織をぬいで吸入した。丁度穴から二尺位隔てて居ても盛に湯気の出る時にあると、とてもはげしくて我慢が出来ぬ位だった。それに湯気が廣く顔に当るので目をあいて居る事は出来ない。イヤハヤ顔中しづくだらけで衣物までしっとりと濡れる位、十分間ばかりして出た。外の二人の男と女も出て来た。廊下には湯の出るのを見て居る人が大変居て我々を異様な眼で見て居た。

 歸り貸本屋から柳川春葉の「生さぬ中」上巻を借りて来た。歸ったのが午前十一時半頃午後は何処へも出無いで一生懸命「生きぬ中」を読み続けた。春葉の作物は何にせよ実に面白い。常に順天堂病院入院中読んだ「女一代」も中々好評がある通り確かに真価があると思った。これから「生かさぬ中」全四冊終わりまで読むのが楽しみだ。
 熱海倶楽部のあやつり人形は昨日で打止めだと思ったら尚も二日間日述べ興行なる由。いくまいと思ったが、退屈の余り夕食後六時行って見たら一寸今初まる處で今度は前の方で充分よく見る事が出来た。で此の前見た時は極く後の方なので細かい処は、とても分からなかったが、そばで見ると中々あやつりも馬鹿に出来ぬ者だと思った。よく見れば一つの人形に何十本の糸をつけ五寸四角位な糸まきの様な枠に結び付け之を左の手で持ち右の手で一本ゝゝあやつって身振から眉の上下、口の開閉等は勿論、義太夫に合せて愁嘆する処などは却て下手な芝居よりも 甘い位であった。然も之をあやつる人は時々よそ見なぞをしてやって居るが、それでも人形はチャンと身振をして、寸時もボンヤリとして居ることはないのだ。要するに劇とかオペラとかむづかしい側から観楽したら一丈の価値もないかも知れぬが、兎に角手を以って糸で人形をあやつって芝居をさせると云う事だけは中々相当の練習と手腕とを要するであろうと初見て感じた。今晩の番組は一番日佐倉浅民傳で印旛沼の小家の場。宗吾住家の場。東叡山直訴の場。佛光寺祈会の場。印旛沼長吉殺しの場等で、中幕が佛所桜三如月慶上使の場、弁慶上使の場、次が一番目の続き織田屋敷怪異の場。同返し宋吾神社禮祭場で大切かっぽれ傯踊り、と云う順席であった。入りは先ず六七分位だった。十時半番頭のよしどんに迎へられて歸る

   十月三十日   木曜    快晴
 今日は朝からよく晴れて点に一点の雲なく、実に日本晴れになった。ほかほかと暖かくて丁度四五月頃の様で何だか桜でも咲きはせぬかと思われる位だ。明日は天長節なので東京はじめ各地で寿祝の催しが大分盛大らしい。此家の主人と主人の母と天長節見物(?))の為め料理人と番頭と二人供につれて今朝一番で東京へ行ったそうだ。そして歸りに箱根へ廻って来月三日に歸宅そうだ。何れもこんな水商売の者はあんぷく銭を取る代りに一体がはでな者だ。そこへ行くと百姓などは二三十万の財産家でも中々おごった事はしないから驚くね。
 当別荘も又客が大部歸って残りは一七番のお楽しいご夫婦ばかりとなった。そのご夫婦も今日は御天気のせいか午前から伊豆山へ御立かけになって宿は吾輩タッタ一人居残りとなった。何だか天気はよし、つまらなくなっワイ。
 かねがね心掛けて居た湯ヶ原見物を急に重い立って出掛る気になり女中に昼食を急がして正十二時発の軽便に乗った。片道通行税共二十一銭。午后零時四十二分湯ヶ島着、これよりぶらぶら徒歩で行く積りであったが車屋が如アですゝゝとついて来て、弐十銭で行くと言ったが、しまいは十五銭で参りませうと云う。そこで兎に角三十丁の坂道を十五銭とは安いと思ったから乗る気になった。「御宿はどちらですか」と聞くから「ナここ宿るんではないから」と云ったら立場の様な処で降した。全体吾輩其度湯ヶ原を見くびって居た。伊豆山ゝゝと云っても行って見ればあんなつまら無い処だから湯ヶ原だって、こんな者だろうと思って行って見ると驚いた。宿屋の数も沢山あるし道もよし、景色もよし、見る処も中々あるし像想とは太した相違であった。特に停車場(海岸より二十位)から吉浜にかけても又湯ヶ原にかけても穏やかな傾斜で山と山との間から海岸に至る辺一面に水田で稲が穣々として黄金色をなして居る。そして何れも大層な出来で一反八斗位も取れると云う。それで稲を刈ればすぐに耕転して麦を蒔くのであるが、それが同じ二毛作とは云ヒ家の方の田と違って田一面に鋤き起した整地すると丸で畑地の如くで、とても水田とは見られぬ位乾燥して居る。普通反金売買四百円位だと車夫は云ったが、それでも山間の田としては安い者だ。それから少し山にかかって傾斜地になると至る処蜜柑畑でこれも中々太した者だ。斯くの如く農業の適地なばかりでなく一方には海に出れば漁業おする事が出来ると云ふ良い処、は何と羨ましい土地では無いかと僕はツクゞゝ湯ヶ原と云ふ処が羨望に堪えなった。温泉宿は前に記した通り停車場(小田原熱海街道ニアリ)から三十丁降れて後傾斜を以て上り水田の盡る処、山と山との間、川に沿ふて両側、配列している中西。富士屋。伊豆屋。その他大きな旅館が沢山ある。それで湯に這入るのは後日泊りがけて、中西へでも暖っくり来て這入る事にして、今日は名所を見ることにした。先ず地図を一枚買って、それによって弘法大師のそばの清瀧と云うのを見に行った。ここの川に沿ふて天野屋から二十丁ばかり行くとすぐ左の方に弘法大師堂(坊屋)があって向かって左手に崖から落ちて居るのが、即ち清瀧なのだ。高サに三間か四間はあろうかと思はれる。小さな瀧だがそこに一寸した休み茶屋なぞある。これから引返して滝の流れを渡り小徑を五丁ばかり行くとだんだん山はせまり流れは急になる、と小さな危なそうな土橋を渡ると、即ち不動の瀧ニ出る。此処にも休茶屋がある。二十七八位の丸まげの女が茶をくんで出す。瀧は高サ十間以上ありそうに見え細いが、然し中々よい。殊にそばに行くと霧がかかってひやりとする。丁度夕日がこの霧にさして虹を表して居る処は実に何とも言いえぬ趣きがあった。暫らく見とれて茶をのみながら、ながめて居た。瀧の下に小さな不動尊の石像があり、三四間もはなれて、さいせん箱が置いてある。茶屋の神さんが五六冊の本を持って来たから,見たらここへ来た人が発句や歌や□至は狂歌、出たらめ、ポンチ画等ありとあらゆる者が書いてある。この茶屋は頓狂菴と云って御汁粉を出すのだそうだが、なのだが客が少ないからこしらいぬと云ふ事だった。
 ここから山道を更に上に十丁も行くと今度は酔狂菴と云ってそばの名物があるそうだ。これは昨年からとか始めたので元からあった百姓が蕨狂や楠尊に来る都人士を当て込んで休憩所をこしらえたのだとの話し(頓狂菴の御上の話し)少し寒くなったので引返した。今度は公園を見る。此公園は丁度温泉宿のある場所の中央にあって天然に人工を加えて池や花壇を作り噴水は二間位高く盛に噴出して居る。花壇には日本種苗会社何々と云う小さな草花の名を書いた札が立って色々な者があった。主たるものにダーリア、百日草、筑波根草、コスモス、カンナ、ナスター、チュームなどで、もはや盛りを過ぎて汚い位であった。池の中に四方室(あづまや)があったが、これが中々よく出来て居た。然も新しかった。此時二時四十分になったので車に乗り停車場に行ったが、まだ時間があるので海岸へ出た。停車場の前に来るとここからは不相応な八間に九間の芝居小屋があった。今丁度芝居がかかって居る處であった。午后三時二十九分の軽便で四時十分位熱海着それで帰宅した。

   十月三十一日  金曜    快晴  暖
 天長節 祝日
 朝はよく晴れたが午后から大風となり少し曇った。今日の天長節で熱海町でも午后六時から提灯行列があった。
 午前桂子より手紙が来た。父上様が此間上京して栄太桜のあめを買って来て、それを私に小包で送ってくれたと云う報知であった。親の慈愛!今更乍ら何とも言えぬ暖か味を感じた。花崎からもはがきが来た。すぐに両方へ返事を出した。丁度此間写した写真が出来たので一枚づつ百間と花崎に送った。何だか大分やつれて写ったと自分乍ら思った。
 生さぬ中上巻を昨晩で読みうつたので、今日、中、下の二巻を借本屋から持って来た。
 今日送ってくれた国民新聞に依って百間の●●●次郎妻けさが、今度教育会で節婦として表彰されたと云うことを初めて知った。それ程の女かしら!今でも思い出すと「さよふでざんすよ!」が目につく様だ。 「生かさぬ中」上巻読み終る。

   十一月一日  土曜    晴后曇
 十月の月も昨日の天長節を名残に去って、今日は十一月を熱海に迎ふる事となった。隣の客は(夫婦と子供一人)今朝八時の軽便で帰って仕まったので、又別荘は吾輩一人となった。閑静もよいが何だか一人と云う者もいやな気持の者だ。そうかと云って別に居たとも話をするで無し、洗面所で行き違いに「御早う」と云う位に過ぎないのだが……
 午前中は一生縣命「生かさぬ中」中巻を読み始めてとうとう一冊よんでしまった。実に渥美俊策と妻真佐子は可哀想だ。殊に真佐子が生かさぬ中の滋を愛する情と云ったら何とも云えぬ程哀れで、それと同時に産みっぱなしで鳥の如く子をすてて出奔せる滋の実母珠枝に至っては其の無情な程酷ふこと、なぐってやりたい位だ。真佐子の継母御夏も生かさぬ中の真佐子に対する情愛の寧ろ実子たる志津子(子□夫人)に対するも濃かである処には自分の身に引較べて実に涙の出る程、お夏や真佐子がけだかい人に見える(真佐子の滋に対するを意味する)嗚呼世の中にもこんな継母があるかしら?と不信でたまら無い。彫刻家の日下部正誠がのんきな男に似合わず真実一生懸命に渥美一家の為めに尽力し見ては自殺せん。そして路上に倒れたる真佐子を引取って(谷中で九段本間の一人暮しの日乍朗が)懇ろに世話をしてやる處などは実に親友のなさけが目に見える様だ。之に反し編中悪くい奴等は珠枝を始め兄の巻地大造、その他真佐子の実父赤沢売輔である。嗚呼、彼等悪人の末終は如何になり行くか下巻後篇が楽しみだ。
 午前十時頃 □から小包が届いた。それは昨日桂子から 知らせがあった栄太桜のあめ一缶で非常に重い。其の外にいきな組識の紐が一本這入って居た。今日散歩の時に早速それをつけて出た。吾輩こちらに来てから実に親の情愛の厚きに今更乍ら感謝の限りに堪えない。□乍ら私は此小包を推し頂いて有難く頂戴した。 午後から散歩に出た。今日は行く處が無いので二度目の魚見崎見物に出かけた。それでトンネルを出て錦浦へ行くと浪の打ちする處に自然に出来た岩のトンネルがある。その上の方は黒ボク(磯ボク)とも云うのか、処々水の触った様な穴處のある岩で一つかと思われる様に切り立った崖をなし、其の間に二抱もあるかと思う様な松の木が枝ぶり面白く海面にのり出し、小さいのは沢山あって、しかもその松葉の色の緑と云ったら実に何とも言われぬ程よい色だ。さすがに錦浦と言ふ名称にはぢずと感じた。と見ればこの新道から曲りくねって下におりられる。小路のあるのを発見したので早速行って見たが浪ぎわまでは行く事は出来なかった。然しここに来ても例の先のトンネルがよく見える。……帰りに山を歩き百姓が蜜柑を採収して居るから十銭が蜜柑を買ってハンケチに包んで之を食べながら山を散歩し、丁度四時少し過ぎに帰宅した。
 熱海へ来てから体温は三七.〇位で、低い時は三六.八位になったので大に喜んで居たら昨日は突然三七.四になったので少なからず驚いた。然かも昨日は午后も安静にして本を見て居たのだ。今日は三七.二であった。又暫らく発熱するかも知れぬ。何だか今日は日誌を書くと頭が痛んで仕方がない、からこれで止める。

 十一月二日  日曜    晴后少雨
 今日は手紙も来ず返事も出す必要もなく殊に手持無沙汰なので午前中は矢張り生かさぬ中下巻を一冊読んでしまった。兎に角、毎日午前中は滅多に外出はせず大抵家に居て本を読む事にして、午后は二時間位□□運動する様に勉めて実行して居る。昨日からと云うもの当別荘も実に静かで聞かせるのは浪の音ばかりと云ってもよい位、却て田舎に居るよりも余程閑静だ。
 午後此の本を返し乍ら梅園を再び訪づれた。今度は道順を知って居るので来宮橋を渡って三島街道を行き二三町して曲角に大きな松の木の下に右三島道東梅園と記された石の處から左へ切れて丸石を庭石の様に並べた道を行く事数町そして梅園に至る。今日も唯一人園内を散歩して居る人の影だにない。丁度梅園新道を行くと園に入る前の一軒の茶坊の庭を通らねばならぬ様に出来て居るが内をのぞいて見ても人のけわいも無いので、勿論「御休みなすっていらっしゃい」という声も聞かれやうはづが無い。私には此方が却て良いと思った。入口の草葦の四方屋で一服つけてから徐ろに園内を散歩すれば、梅は□□られて堅く蕾を閉じていつ開くかと云うあても無いやうに見える。それは無論花が開いた方がよいかも知れぬが、私には却て此の開かうとしても開く事の出来ないと云う堅いゝゝ蕾の中が丁度可愛い少女の様に無邪気で神聖で何となく床しい思いがした。然し此の梅も一陽来復して或る時期がくればいやでも応でも独り手に蕾がふくらんでしまいにはパッと奇麗な花を開き世の人々は花よゝゝと持て囃されるのか?とおもうと……更に一歩進んで考えるとその奇麗なゝゝ花がさいて幾日か立つと次第ゝゝに風や雨にもまれて色は退せ逐には一片二片風のまにゝゝヒラゝゝと散ってしまうのか?云うなれば前には「アヽ奇麗な花だ!」とほめそやした幾千万の人々もパッタリ来なくなって誰一人散った跡の梅を訪れる者は無い……と云うまで考えて来ると何だか急に哀れな感じを催して来た。思えば丁度若い女も同じ事。娘盛りは蝶よ花よと世間の男からヤンヤと持て囃やされるが一紀にして三十路を数ふると見れば最早世の人は散りきった梅同様見向きもせぬ。たまゝゝかかる女を訪れる者ありせば梅の実を取らんとする欲張り位な者!!嗚呼似たる哉ゝゝ此の梅の木と若き女子よ………イヤハヤ愚もつかぬことをことを考えた者だな。何だかツマラナイ「そんな事は今更れいゝゝしく君が言わなくても当り前だよ」……誰タイ後の方で僕の悪口を云って居るのは、もう……」
 此の前来た時とは違って今日はあちこちにある紅葉が大変仕葉して居て、それが流れに写って実に奇れいだった。右の方松山の間にも点々として中々沢山の紅葉の木がある。紅葉の盛りも間近で、さぞ奇麗だろうと思った。昨日百姓の前で買った蜜柑の食残り三個をハンケチに包んで腰にぶらさげて出掛けたので幸ひここの腰かけにおいて渇いた喉を濡した。四時頃帰って見たが、とうゝゝ今日は国民新聞が来なかった。夕食後一天にわかに暗くなったと思ったらドンゝゝ雨が降り出して来た。八時頃には又やんだようだった。
 今日はクシャミをすると非常に胸に響いて痛みを覚えた。僕は「カステラ」に就て近頃知識を得た。これは須部て甞て順天堂入院中合室の患者野田幸次郎と云う人が「カステラと云う者は握って見て手を放すと自然に複の形に返るのでなければ良い品でない」と云うことを言って居たが、僕はそれに附け加えて更に「握って見て楽に潰れるのは良い品で(即ち多孔性)握った時にジクジクと云う様に質が緻密で水分を含んで居るのは劣等品(少なくも出来損ひの品)である」と言ったことを発見した。それが然も風月のカステラでも見る事が出来る。殊に一釜の内でも火のよく通った處は多孔性に出来て、火のよくまわらぬ處は水気のあるまづい者が出来るらしいと思った。それで食べて見てその後者の方は大変まづいのであるから、買う時は成るべく火の能く通って少し焦げる位に焼けた奴を買ふ事とするが上分別也と悟った。



熱海療養日記(3)へ     (1)に戻る 
HOMEへ 


コメントを投稿