7月6日23時59分、世田谷区役所にいって娘の出生届を出してきました。名前は理央奈(りおな)としました。
理はサイエンスの理。ことわりの理。
央は真ん中。両端を知り尽くして中道を行けという仏教の言葉を思い出しました。真ん中は王道でもあります。一番大変な道です。
奈は特に意味はありません。音です。勇吾がひらめいた呼び方なので、それを大切にしました。
6月22日に産み落とされた娘は、名前を授かり今日から人生が始まりました。
母親にとっては産んだ日が誕生日ですが、父親にとっては今日が全ての始まりな日がします。
これからが長い。
いや、今までも長かった。いったいなんなんだろうか。
母の体に10か月間。母は少しずつ大きくなる娘のために少しずつ動けなくなり、
出産直前は階段の上下も大変になる。もちろん、やりたいことはどんどんできなくなる。
10か月は人生から考えれば短期間だけど、そのために夢や仕事をあきらめなければいけない人もいただろう。
そして出産。
昔と比べて出産はリスクが少なくなったとはいえ、それでもやはり死産や難産の可能性は
たくさんある。出産しても障害があるかもしれない。
産まれたばかりの子供は本当になにもできなくて、いつも泣いていて、3時間ごとに授乳して、1日10回おむつを替えて、
目を離してうっかりベッドから落ちてしまうだけで死んでしまうかもしれない。
そうして気が遠くなるほどの時間を経て、ある日突然寝返りを打つ。その瞬間は本当に魔法を見たのかとおもった。
たった15㎝のマジック。
そうしてまた気が遠くなるほどの時間を経て、這いだす。この日からは階段や窓から落ちる可能性があるので
ますます目が離せなくなる。
そうして今度は記憶が溶けていくぐらいの長い時間を経て、子供は立ち上がり、しゃべり始める。
この期間はなにがどの順番で起きたのかはもうあまり覚えていられない。子供は自分と他者との境界が大人よりも
曖昧だというが、大人のほうも自分と子供の境界がどんどん溶けていく。
自分の時間、子供の時間と、仕事のように時間をきちんと切り分けるわけにはなかなかいかない。
自分以外の他者とこれぐらいの長い時間を常に共にすることは今までなかったし、これまでもないだろう。
いや、もちろん本当は自分が子供の時に親にそうしてもらっていたのだが、覚えていることはできない。
ここから先の話は分からない。まだ上の息子は3歳半で、未経験ゾーンだからだ。
でも、さらに気が遠くなる時間を経て、少しずついろいろな能力を獲得していって、少しずつ親から離れていくんだろう。
その間も事故の心配はいつも尽きない。都会には危険なことが多すぎる。
大人になっても人生の罠はたくさんある。鬱になって苦しんでいる人もいるし、癌になるかもしれない。
新興宗教にはまって簒奪される人もいる。心配は終わらない。
それでも僕らは子供たちを所有することはできない。限りの無い愛を注ぎながら、二度と一つに戻ることはない。
しかし、僕にも子供の時があったとふと思い出して、いったい自分にはどれくらいの時間と思いが注がれてきたんだろう、という
単純な事実に驚愕した。子供を育てるのは親だけじゃない。周りの人が助けてくれた。社会のあらゆるサービスが守ってくれた。
病院があり、学校があり、公園があった。
すごいな。
すごいよ。
俺にはどんだけ価値があるんだ。
もう、明日のために今日を生きるのはやめよう。倒れるまで起きていよう。
心を開いて、見てきたもの全てをもう一度見よう。
ありとあらゆるネガティブなエネルギーから離れて、もう一度愛し合おう。
理はサイエンスの理。ことわりの理。
央は真ん中。両端を知り尽くして中道を行けという仏教の言葉を思い出しました。真ん中は王道でもあります。一番大変な道です。
奈は特に意味はありません。音です。勇吾がひらめいた呼び方なので、それを大切にしました。
6月22日に産み落とされた娘は、名前を授かり今日から人生が始まりました。
母親にとっては産んだ日が誕生日ですが、父親にとっては今日が全ての始まりな日がします。
これからが長い。
いや、今までも長かった。いったいなんなんだろうか。
母の体に10か月間。母は少しずつ大きくなる娘のために少しずつ動けなくなり、
出産直前は階段の上下も大変になる。もちろん、やりたいことはどんどんできなくなる。
10か月は人生から考えれば短期間だけど、そのために夢や仕事をあきらめなければいけない人もいただろう。
そして出産。
昔と比べて出産はリスクが少なくなったとはいえ、それでもやはり死産や難産の可能性は
たくさんある。出産しても障害があるかもしれない。
産まれたばかりの子供は本当になにもできなくて、いつも泣いていて、3時間ごとに授乳して、1日10回おむつを替えて、
目を離してうっかりベッドから落ちてしまうだけで死んでしまうかもしれない。
そうして気が遠くなるほどの時間を経て、ある日突然寝返りを打つ。その瞬間は本当に魔法を見たのかとおもった。
たった15㎝のマジック。
そうしてまた気が遠くなるほどの時間を経て、這いだす。この日からは階段や窓から落ちる可能性があるので
ますます目が離せなくなる。
そうして今度は記憶が溶けていくぐらいの長い時間を経て、子供は立ち上がり、しゃべり始める。
この期間はなにがどの順番で起きたのかはもうあまり覚えていられない。子供は自分と他者との境界が大人よりも
曖昧だというが、大人のほうも自分と子供の境界がどんどん溶けていく。
自分の時間、子供の時間と、仕事のように時間をきちんと切り分けるわけにはなかなかいかない。
自分以外の他者とこれぐらいの長い時間を常に共にすることは今までなかったし、これまでもないだろう。
いや、もちろん本当は自分が子供の時に親にそうしてもらっていたのだが、覚えていることはできない。
ここから先の話は分からない。まだ上の息子は3歳半で、未経験ゾーンだからだ。
でも、さらに気が遠くなる時間を経て、少しずついろいろな能力を獲得していって、少しずつ親から離れていくんだろう。
その間も事故の心配はいつも尽きない。都会には危険なことが多すぎる。
大人になっても人生の罠はたくさんある。鬱になって苦しんでいる人もいるし、癌になるかもしれない。
新興宗教にはまって簒奪される人もいる。心配は終わらない。
それでも僕らは子供たちを所有することはできない。限りの無い愛を注ぎながら、二度と一つに戻ることはない。
しかし、僕にも子供の時があったとふと思い出して、いったい自分にはどれくらいの時間と思いが注がれてきたんだろう、という
単純な事実に驚愕した。子供を育てるのは親だけじゃない。周りの人が助けてくれた。社会のあらゆるサービスが守ってくれた。
病院があり、学校があり、公園があった。
すごいな。
すごいよ。
俺にはどんだけ価値があるんだ。
もう、明日のために今日を生きるのはやめよう。倒れるまで起きていよう。
心を開いて、見てきたもの全てをもう一度見よう。
ありとあらゆるネガティブなエネルギーから離れて、もう一度愛し合おう。
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