今回も過去に書いたエッセイもどきを転載しました。飲み物選ぶのも、難しい私は、本当に、多分、虐待サバイバーなんだろうな。なんて思います。
私は珈琲よりも紅茶を好む。それはただ単に舌がお子ちゃまであるということやコーヒーメーカーを使う元気(家では安いコーヒーメーカーで飲んでいる)がないからでもあるけれど、少し思い出したことがあるので書いてみる。
私の母は珈琲好きで、毎朝必ず六時までには起きて、コーヒーメーカーをセットするか、電気ポットを再沸騰させてあっつあつの珈琲を作り、砂糖は入れず牛乳と、夏には氷を入れて飲んでいた。起きる時間が同じになった中高校生の頃には、母の代わりに母のやり方で作っておくことを頼まれたり、自ら進んで作ってみたり、多めにお湯を沸かして一緒に飲むこともあった。母は缶やペットボトルの珈琲は好まなかったが、時々手間などを省くために市販品を購入して飲んでみては、不味いと文句を言うので、やはりコーヒーメーカーと電気ポットが活躍するのだった。当時、私はあの珈琲に砂糖を入れていたが、今はなくとも飲める。寧ろ市販の微糖より美味しいと感じる。それってつまり、私の中のお袋の味の一つなのかもしれない。
が。私はその状況を好ましくは思っていない。
母は製菓にも励む人だったので、その時のお菓子の内容によって紅茶を出してくることもあったし、冬にはホットレモネードも出てきたし、ココアも常備されていた。飲み物にこだわりがあったのかもしれない。私がドジだから零されるのを懸念したのかもしれない。母は必ず自分の手でありとあらゆる飲み物を用意してくれた。そうしながら私に言うのだ。
「本当にあんたは何も出来ないのね」
缶コーヒーを買って飲んで、母の「不味い」が過ぎり、そんな母が不味いと言ったものを飲んでいる自分が間違っているように思う。
ペットボトルで手間を省こうとしても「何も出来ないのね」の言葉で思考と息が止まりかける。
ならば、と安物だろうが折角買ったコーヒーメーカーなのに、母の作り方以外で飲むこともできず、かといって模倣するばかりの自分が未だに母を追い求めているようでとても気持ちが悪くて情けない生き物に思えて泣けてくるので、最近は邪魔なインテリアにもなれずにいて、とても哀れだ。
眠れない夜のホットミルク、特別甘いココア、冬のご飯のお供の緑茶、風邪を引いた時のホットレモネード、しっかり蒸らされ丁寧に注がれる紅茶。そういう全てに母が思い起こされて、私は未だに避けて暮らしている。せめて優しい記憶ならばよかった。そうすればいずれ平気になれたかもしれない。でも、違う。
眠れない夜、あんたのせいで寝不足になると文句を言われながら用意されたホットミルク。牛乳嫌いの私は砂糖を入れなくては飲めなくて、勿体ないと叱られる日もあったし、牛乳に砂糖入れるなんて意味が分からないと嘲笑される日もあった。
テレビか何かで知った美味しい作り方を実践したいからとうきうきした様子で手際よく用意されるココア、飲んでもそれまでとの差が分からなかった私は母の機嫌を損ねたくない一心で美味しいを繰り返し、そして母は満足そうに「あんたには無理だから」と笑った。
緑茶を淹れるのは私にはとても難しく、いつもお茶っ葉の入れる量を間違えて酷く濃いものを作ってしまったり、筒の蓋を空ける時点で苦戦して、しまいにはひっくり返して撒き散らしたりするものだから、結局母が怒り狂いながら一人で用意したり片付けたりするのを謝りながら見ていることしかできなかった。
風邪を引けば文句を言われ、仮病に違いないと叱られる。熱を測り高温ならなぜもっと早く言わないんだと怒鳴られ、一人で病院へ行かされる。その空気の中、用意されたホットレモネード。体調不良など早く治せと急かされる。早く治すにはホットレモネードだ、と。猫舌だった私は熱々のそれをなかなか飲むことができず、大袈裟だと嘲笑される。
紅茶も似たようなものだった。そして高くていい茶葉の違いや価値が分からないあんたには勿体ない、と馬鹿にされる。
ああ、全てが、煩わしい。
そんな訳で、たかだか飲み物を選ぼうとする度に、これだけの記憶が脳内を一瞬で駆け回り、結局、新商品=当時の母が知らないもの、つまり私の中の母の記憶の中に出てこないものを選びがちだ。知らないものについては文句を言うこともできない。でも文句を言ってくるのは飽くまで「私の記憶の中の母」なのだ。全ては妄想、幻聴に近いもの。それでもとても痛くて苦しくて、避けられない幻。
嘘だ、とも思う。きっと私が記憶違いをしているだけだとも、思う。母が自らの優しさや私への愛情から飲み物を与えてくれたことだってあったはずだし、私がとんでもない出来損ないだから、見るに見兼ねて手を差し伸べてくれただけなのだ、などと、思う。思い込もうとする。思い込めたら、いいのに。
冒頭に戻るが、私はアイスティーが好きだ。カフェなどではほとんどアイスレモンティーを頼む。母はほとんど冷たい紅茶を飲まなかった。飲まなかったから批判的意見もあまり耳にしたことがない。それだけで、とても安心して口にすることができる。つまらない選択。最初はきっとそうだった。けれども今は、少なからずアイスティーを「美味しい」と思いながら飲んでいる。それはきっと、悪くないこと。後退することもあるかもしれないけれど、1mmでも前には進んでいる。限られた選択肢しかなくとも、幸福になろうと思えば無理ではない。私はそう信じたい。
(noteより転載)
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