こんにちは! こんばんは!
もみくちゃん🥳です。
今回は「現在のもみくちゃん🥳はどういう生活をしているの?」という話をしたいと思います!
流れはこんな感じにしますね🙌
- 家を出たのはいつ?
- 家を出てからどうしたの?
- それから、そして、今
という感じでお話していきたいと思います。最後まで読んでくだされば嬉しいです😊
①家を出たのはいつ?
家を出た、というか、家を追い出された、というのが私の認識です。が、両親側はきっと
「親不孝者が勝手に出ていった」
という認識でしかないと思います😣
19歳の春、3月末か4月頭か、それくらいのまだ肌寒い日の夜でした。
唐突にだったと思います。母が「こいつと同じ家で同じ空気吸いたくない」とヒステリックな口論?を始めました。
最初こそ母を宥めようとしていた父でしたが
恐らく折れたのでしょう。母がリビングから飛び出してきて、廊下の端で正座していた私の所にきて、胸倉を掴みあげると、
「今すぐ出ていくか、このままこの家にいて二度と逆らわずにまともな生活を送るか選び!」
と選択を迫られました。
そこからの記憶は曖昧です。
覚えているのは、出ていくと告げた時の静寂とその後の激昂、荷物まとめろと言われたままに動いて、ボストンバッグに荷物を詰め込んだこと、「そのまま出ていくつもりか、今までの感謝の言葉もないのか」「出ていくなら金輪際関わることはないと思え」「死んでも別にどうも思わないし、何もしない」「本当にそれでも出ていくつもりなのか」「お前のことは今後死んだものだと思って家族4人で幸せに暮らす」
「後から泣いて謝っても許したりなんかしない」「もうこれが最後のチャンスだからな」というようなことをがーっと言われ続けたこと。
そして、それでも私が折れない、出ていこうとしていると悟ったのか、
「お前に荷物なんて生意気だ」
と、全ての荷物を床にばらまかれ、蹴りあげあれ、踏みつけられ、友達への手紙なんかの中身を声に出して読み上げられ、笑われ、捨てられました。
最後は、
「出てくんだろ、いつまでいるんだ」
と言われながら、玄関の土間に突き落とされ、痛がっているのも無視して外へ蹴り出されて、おしまいです。
玄関の鍵が閉まる音、玄関先の、そして廊下の電気が消えて、私は涙でぐちゃぐちゃの顔で、しばらく泣いていたのか、それとも、もう泣く気力もなくなったのか、その辺も覚えていません。
私のお財布に入っていた500円玉だけを投げ付けられたことは覚えてるけれど。
そこからの詳細はまた今度にします。
数日後、当時お付き合いしていた男性に連絡をし、ようやく繋がって、家を追い出されたから迎えにきてくれないだろうか、というお願いをしました。
その人は年上でしたが、めちゃくちゃ最低な人間でした。でもあの日、私の地元まで来てくれたことだけは感謝してます。
②家を出てからどうしたの?
①に出てきた男性に連れていってもらって、関東まできました。私は元々音大で関東で寮生活をしていたのですが、その時に知り合ったのが彼でした。
その時は親から離れて、穏やかに生活ができるんだ、と新しい生活に胸踊らせていました。
ところが、蓋を開けてみたら、彼は派遣社員から、あっという間に無職になり、パチスロに依存していたので、私が二人分の生活費を稼がなくてはならなくなりました。
もちろん彼は家事なんて全くしません。
私は衣食と彼がギャンブルに行くためのお金と性欲処理を提供するだけの存在になってしまったのでした。
そしてそのうち、母と似たような言動を彼が繰り返すようになり、DVが始まるようになりました。身体的、精神的、金銭的、そして性的DVという、加害のオンパレード。
「病人は人を好きになる権利なんてない」という言葉は、未だに忘れられません。
私は元々あったらしい乖離症状が悪化し、不可思議な言動を繰り返すようになり、外に一人で出られなくなり、三徹しても全く眠れなくなり、それでも彼からの罵りは収まることはなく、自殺を考える毎日でした。
そんな中、一人だけ、私を救おうとしてくれる人がいました。Mくん、と呼びます。Mくんは彼の友人で、よく私とも遊んでくれていました。
耐えきれなくなったある日、Mくんに、彼からの仕打ちを打ち明けました。
Mくんはできるだけ家にいてくれる時間を作って、私たちの家から仕事に行き、DVの現場に出くわせば仲裁しようとしてくれたり、時には私の味方をして彼を叱ってくれたり。
そして、働けない私と働く気のなくなった彼のために、生活保護の提案もしてくれました。
なので私は一時的にですが、生活保護を受けていました。そのお陰で病院へ通ったりできるようにもなりました。
そういう生活を続けていく間に、私はこの暴力的な彼から離れたいと思うようになりました。
同時期にMくんから
「俺が彼氏だったらこんな目に合わせたりしないのに」
などのことを言われるようになり、当たり前のように、元々好感度の高い相手だったので、コロッとMくん側に落っこちてしまいました。
別れを切り出した時の、彼の対応は、母とそっくりで、やはり吐き気がしました。
最初は脅して、高圧的に威嚇して、それでもこちらが曲げないことを察すると途端に宥めようと条件を提示する。それでも取り消さないと知ると、逆切れ。
荷物など投げ捨てられ、私のことも蹴り出しました。
本当に辛い1年と少しでした😢
自業自得とは言え、親からのDVから逃げた先はもっと過激なDV。
さて、実はここからが本番(まだまだ苦行は続きます😂)ですが、今回はここまでで!
③それから、そして、今
今、の私について書くのなら一番必要な情報があります。
実は、上記のMくんと結婚しました。
「既成事実」があった方がお互い親から文句言われずに済むかも、という打算もありましたが、お互いが必要な存在だという確信の元、できちゃった結婚でした。
現在私には4人の子供たちがいます。
「幸せいっぱいじゃん!」
と思った方もいるかもしれません。が、ここに至るまでの道も大変困難でした。
どうしても長くなってしまうので、箇条書きにさせてもらうと、
- Mくんの実家も毒家庭だった
- つまりMくんも毒親育ちの虐待サバイバーだった=父親という自覚は皆無だった
- 虐待を受けていた事実を受け止めきえないまま始まった育児生活で、トラウマを量産し、育児ノイローゼとなり、長男と長女への虐待行為が始まってしまった→行政の力を借りて、これ以上子供たちを傷付ける前に私から引き離してもらった(児童養護施設で6年間過ごさせてしまいました)
- Mくんはそれでも無関心だった
- Mくんはギャンブルに依存していて、育児の費用も使い込んで、借金もいつの間にか膨らんでいた
- Mくんは避妊についても非協力的で望んでいない妊娠が重なった=放任系毒親の影響だと思われる
- 私の自殺未遂が数回(どれも軽度でした)
- Mくんも私もその数年後に発達障害の傾向を持っていることが分かる
- 子供たちも発達の問題が徐々に判明
- Mくんの不倫
- 離れていた長男長女の帰宅訓練開始、無事に帰宅生活が送れることになり、6人生活が始まった
- 私の身体面での不具合が多発
- 不動産で詐欺に遭う
箇条書きにしても長かったですね🤣
問題が起きる度、できる範囲で最大限の努力はいてきたつもりです。
でももっとできたことはなかったのかな、と未だに悩むことが多いです。
ただ、客観的にみればきっと、幸せなのだろうとも思います。でもそれは「理解してくれた配偶者」がいたからでもないし、「何もかも許容してくれる優しい相手がいた」からでもないです☹️
そんな課題だらけの半生だったから、今もまだ生きてしまっているのだろうと思います。
Mくんが完璧超人だったら、私は成長する機会もなかっただろうし、自分でこの負の連鎖を止めようなんて思わなかったかもしれない。
深く考えて、死ぬほど足掻いて、そうやって手に入れた今、です。
だからこそ、誰かに何かを伝えなくちゃと思って、活動をしてみることにしました。
Mくんから、こういうプライベートな話を公にする許可はもらいました。子供たちに関しては、彼等自身のそれぞれの考えもあるでしょうから、基本的には
『こどもの話はできるだけしない』
ことにしようと思ってます。
ただ、私が子供たちに日々、どんな感情を抱くのか、それをどうやって紛らわせているのか、のような話は出てくるかな、とも思っています。
私は、虐待を受けて、自分も虐待をした側です。取り返しのつかなくならない所で踏みとどまれたことは、今でも安堵しています。
今後も子供たちが健やかに過ごせるように、私自身がアップデートしていかなきゃな、と毎日修行中です🤣
今回はここまで!
いかがだったでしょうか。
私、もみくちゃん🥳について、もう少し分かっていただけたら嬉しくおもいます💖
それではまた、次の機会にもお会い出来ますように🌟
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