明治政府は日本の将来の柱石になるべき人材を育成するための「中学校令」を明治19年に公布した。この中学校令により第五高等中学校(明治27年高等学校令で五高)は設置された。明治20年10月に古城の県警察署跡地に仮住まいして開校された。
敷地を飽託郡黒髪村の龍南の地に確保し明治21年2月より文部省の直轄工事として、文部技師山口半六と久留正道の設計・監督の下に新校舎の建築に入った。その後1年半の歳月を要して、熊本における最初の煉瓦造りのクイーン・アン様式の建物は完成した。
初代文部大臣森有礼は明治19年に開校した第一高等中学校長野村彦四郎を、あえて熊本の第五高等中学校の校長として送り込んだことは、初代文相森有礼の日本の教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。
五高の建物の落成早々の明治22年7月28日深夜(午後11時40分には熊本地区はマグニチュード6,3と言う大地震に見舞われたがこの建物には聊かの亀裂もなかった、その後この建物の評価が高まり、此の一帯は観光地の様相を呈したと言う。
7月28日深夜の地震の際に、学校に駆付けた者は、当時の伺いから起案者 余田司馬人 以下肝属左右、町野一清、益永長平、林 惟喜、野村彦四郎、上野盾次、廣岡武七郎、笠井真、上野広八、中原淳蔵、余田司馬人(蒲原忠蔵、・高井信敦・、大場景定・・建築掛) 前田元敏、井上元吉、立山儀平次、瀬高準八の18名を数えた。当時の五高に対する職員の意気込みが感じられる。
全国五区の高等中学校では敷地規模は最大の広さであった。
初代校長野村彦四郎は乗馬が得意で、官舎から度々遠乗りを楽しんでいたと言う。五高に乗馬部が出来たのは全国の高等中学では最初であったが、この時森文相は遭難した。最大の理解者を失った野村校長は非職になった。
2代目文相榎本武揚は、校長には平山太郎を任命した。平山校長の業績は開校式の行事を行ったことが上げられるが、在任中に卒去してしまった