五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高東光会の誕生

2013-07-27 06:07:21 | 五高の歴史
今月は明日より私用があって五高の歴史を調査出来ないのでしばらく休載する.そのため今朝は自分で書けたものを出来る限りなるべく多く掲載することにした。

東光会とはマルキシズム華やかなる頃これに対抗して「光は東方より」を叫んで結成された東洋研究団体で国粋主義傾向を表して活動した会である。
この後マルキシズムは没落していったが、東光会は活発になり活躍していった。昭和14年2月1日寮内のコンパで議論は大いに進んで東大の河合、土方両教授の問題に及び学の絶対自由を説いて軍官の思想的弾圧を痛感して祖国の前途を思い半ばに過ぎるものありとなす者があり、国家の大学において教壇に立つ以上、その国家に弓引く思想態度は許されぬといい、言論と思想を巡って論議が戦わされた。この日も河合教授に対して法学部学生がとった態度に対し論ぜられたが遂には現今の教育制度そのものを恨むという結論に達している。

この思想は時代にマッチして昭和二十五年の五高閉校時まで存続している。なおここでは五高社研について熊本県百科大事典を転載しその実態を調査してみた。

五高社研
第五高等学校社会科学研究会の略、社研運動は大正十一年(一九二二)五月、後藤寿夫(林房雄)、鶴和人、松延七郎、村上敦、坂本彦太郎等によってRF会が創立された時に始まる。全国の高等学校では先駆的存在である。雑誌「前衛」山川均が訴えた『ロシアを救え」の呼びかけに呼応して救援活動に参加した。

東大新人会の指導もあって人道的運動として教師、学生間の支持が拡大した。同年十一月に発足した学生連合会(FS)に加盟し、全国の学生間で組織されたロシア飢饉救援会にも参加した。五高社会思想研究会と改称し、研究団体として学校側からも承認された。一二年一月の高等学校連盟結成大会に代表を送り、合宿所を持って本格的に発展し、労働者や文学青年などとも交流し七日会の結成に参加、労働者教育、郡築小作争議にも精力的な支援活動、オルグ活動を行い、青年労働者とともに自由青年学生連盟を組織し機関紙「黎明」を発行、農村の啓蒙遊説運動にも参加した。一三年の熊本初のメーデーにも参加し、この年創立された九州無産青年同盟に参加するなど、次第に研究活動から社会主義実践活動に参加する傾向が強くなった。

校長溝渕進馬は同年十一月、文部大臣の全国高校社研解散命令(十二月二日)に先立って解散を命じた。激しく反対運動を行ったが認められないままに、非公認で社会科学研究会を組織して活動を続け、十五年の市電争議では退学者も出した。昭和に入ると京都学連事件、三・一五,四・一六などの相次ぐ左翼弾圧の中で社研運動も先鋭化し検挙者も出したが、五高社研は社会活動に活動する著名な活動家を生み工高、薬専、医大、第一高女、熊中等の中学社研運動に多大の影響を与えた。(上田穣一)   熊本県百科大事典


また溝渕進馬校長について私の調査しているものを参考として掲げることにした。
第五高等学校第八代校長 溝渕進馬 
職員履歴によると、明治三年一二月二五日 高知土佐の士族の子として生まれる。明治一四年四月高知中学校入学、同二一年七月尋常中学を卒業し、九月には第三高等中学校予科第二級に入学、二五年七月第三高等中学校第一部文科を卒業する。同九月帝国大学文科大学哲学科に入学し、二八年七月卒業した。中学、高校時代は、後にライオン宰相と言われた浜口雄幸と同級であった。卒業後は、十月から高知県の尋常中学校の教員になるが、三十年には依願免職し、同七月に第二高等学校教授に任じられた。その後一時千葉尋常中学校校長となるも、三十一年九月には、文部省から高等師範学校教授に任用され、教育学研究のため三年間独逸、仏蘭西へ留学する。三十六年一月帰朝し、高等師範学校の付属中学校の主事を勤める。同四一年には東北帝国大学農科大学予科の教授になる。四四年八月、第四高等学校長に任用され、一〇年に及ぶ在任の後、大正年一〇年一一月九日、吉岡校長の後をついで第五高等学校長として赴任する。四高では猛烈な留任運動が起こったという。

前任校長吉岡郷甫が、官僚的で公私の別が厳格で学生との直接の接触を避けていたのに反し、溝渕の教育方針は、あくまで生徒との接触指導というところに主眼が置かれていた。その昔の嘉納校長や秋月教授を彷彿とさせるようで、しばしば生徒と歓談していたという。就任早々、グラウンドの整備をして運動を奨励し、放課後は毎日運動部の練習を巡覧したり、合宿所を訪問したりもした。そのため各学生の長所や短所まで知っていたことは実に驚くばかりであったという。五高生の回想にも溝淵校長の名はしばしば登場する。

第一次大戦後の大正中期から後期にかけて、日本にはデモクラシーの思想が風靡した。大正八年には河上肇の「社会問題研究」の創刊、九年には第一回のメーデーの開催、十一年には日本共産党の創立などがあり、全国的に学生運動の気運が高まった。五高でも生徒達は吉野作造を喧伝し、河上肇の『貧乏物語』などを愛読するなど、龍南健児の周囲もめまぐるしい環境の変化が起こった。
大正十一年五月には後藤寿夫(林房雄)・鶴和人・松延七郎等を中心として社会科学研究会(社研)が生まれ、八代の郡築小作争議を支援したりした。全国の学校の左翼思想組織の勃興に驚いた政府はすぐに弾圧に乗り出した。各学校で同盟休校が相次いだなかにあって、五高校内において全く事なきを得たのは溝渕の苦心と、生徒達の溝渕対する信頼によるところが大きかった。
五高資料の中にこの思想問題に対する文部省の通達とこれに対する溝淵校長の報告などが残っているので文末に「資料」として転載する。

また、溝淵の死後発見されたという三〇有余年にわたる日記には五高時代の詳細な記録もあり、その一部分が『龍南回顧』に「日記抄・告示」として掲載されている。

またこの時期には右翼的思想の台頭も見られ、徳富蘇峰、中野正剛等の国家主義思想を受け継ぐ五高東光会が江藤夏雄・納富貞雄・星子敏雄・園佛末吉等で立田山中腹の龍田山荘を本拠地に誕生した。
この時代は思想問題の激しい時代で全国各学校ともストライキの洗礼を受けない学校はほとんどないと云う状態で、溝渕がこの思想問題の指導のため苦心したことは想像以上であったろうと思われる。      
溝淵校長の在任は九年余りでこの時代旧友の浜口雄幸首沿うから、文部大臣を乞われたが、「最後まで教育者でありたい」とその要請を断っている。(参考『土佐と反骨―高知県教育史上の人々――』)昭和六年一月十日第三高等学校長として転任している。この転任に際しては生徒達は挙ってそれを惜しんだそうである。

〈資料〉
発専九三号
  大正十三年九月八日
         文部省専門学務局長   栗屋  謙  官印
  第五高等学校長  溝渕進馬殿
先般ノ高等学校長会議ニ於テ決定セル通今秋九、十月ノ交ヲ期シ高等学校長会議ヲ開催スル予定ニ有之其ノ期日ハ確定次第通報可致モ当会議ニ於テハ思想問題二付篤ト御協議致度此ノ種ノ問題ニ付テハ貴校及貴地方ノ状況ヲ調査シ思想研究団体ノ取扱其ノ他之カ対応策等ニ関シ予メ御講究置相成ド此通牒二及フ


  大正十三年十二月二日   第三八四号  
 文部大臣ヘ申報ノ件
先般学校長会議ノ際御命令有之左ノ通本校生徒ノ組織セル社会思想研究会ハ弥本日ヲ以テ解散為被候ニ付御了承被成下度此段及御申候也
   年月日            校長名
  大  臣    殿

発専一五六号     大正十三年十二月十五日受付 第三四三号
大正十三年十二月十三日
         文部省専門学務局長   栗屋   謙  官印
第五高等学校溝渕進馬 殿
    社会思想問題研究団体解散ニ関スル件
 標記ノ件ニ関シ本日迄ニ報告アリタル高等学校ハ左記ノ通ニ付為御参考通牒ニ及フ
          記
    第五高等学校        解 散   
    第六高等学校         仝
    第八高等学校         仝
    山形高等学校        団体ナシ
    松江高等学校        解 散
    浦和高等学校        団体ナシ
    高知高等学校         仝
    姫路高等学校         仝


集専七号           大正十四年三月十八日受付一四九号
     大正十四年三月十六日
文部省専門学務局長   栗屋   謙  官印
第五高等学校溝渕進馬 殿
 社会思想問題研究団体解散ニ関スル件ノ件ニ関シ客年十二月十三日付発専一五六号ヲ以テ通帳ニ及ヒ置キタル処ソノ後報告アリタル高等学校ハ左記ノ通ニ有此段重テ通牒ニ及フ
             記
第二高等学校   解 散   静岡高等学校     団体ナシ
第三高等学校   解 散   広島高等学校     団体ナシ
第四高等学校   団体ナシ  富山高等学校     団体ナシ
第七高等学校造士館解 散
新潟高等学校   団体ナシ  松本高等学校    団体ナシ
松山高等学校   団体ナシ  水戸高等学校    団体ナシ
福岡高等学校   解  散  佐賀高等学校・   団体ナシ
弘前高等学校   団体ナシ  東京高等学校    団体ナシ
大阪高等学校   団体ナシ 

次に昭和二年の社会科学研究会について、文部省に報告してある報告文書を転載する。

 十月七日ヨリ一週間全国学生社会科学連合会ガ種々ノ手段ヲ以テ活躍スル旨予メ承知シ居リシヲ以テ充分ニ注意シ警戒ヲ怠ラザリシ処一向活動スル風ナク只学校掲示板ニ一枚校外(学校付近)二枚社会科学ノ研究ヲセヨト言ウ意味ノ宣伝ビラヲ貼リタルモ、前者ハ生徒登校時刻以前ニ気付キ直チニ剥取リ後者ハ多少時刻ガオクレタルモ学校ト警察ノ手ニテ剥取リタリ。其ノ他プロレタリア芸術ト云ウ雑誌ノ講読勧誘ノ広告ビラヲ掲示シタキ旨願出シモ生徒監ノ方ニテ許可シ難キ旨ヲ説キ聞カシ中止セシメタリ、尚ホ小職ノ最モ警戒シタルコトハ毎年ノ行事トシテ熊本ニ在ル四高専門学校連合会ガ十五日ニ開催サルル事ナリシが、十二日締切マデニ十九名ノ原稿提出者(例年ヨリ多数)アリ、一々厳査シテ理由ヲ個人別ニ云イ聞カセ七名ハ不許可、数名ニ訂正ヲ命ジタルモ案外理屈ヲコネル者モ無ク温和ニ引取リ、十三,十四ノ両日ニ開キタル代表演説者予選会モサシタル事ナク、又聴衆者モ至リテ少ナク十五日ノ連合演説会モ無事ニ終了ヲ告ゲタリ。
 右及回報候

(参考)大正十五年三月十日
     専門学務局長の電照に対する回答の件
  年月日               学校長
 専門学務局長宛

 今回熊本市電従業員同盟罷業を企て候処同罷業中本月一日夜本校生徒文科三年生富安三次郎文科二年生杉本聡一郎同木本栄の三人警察署に或は検束せられ或は同行せられたる旨の報知を受け候に付き直ちに警察署及び本人に就き数回取調べは候所富安三次郎外二名は応援の目的を以て罷業団本部に入り込み居り又富安三次郎は其の外に罷業に関し検束せられたる者の釈放に尽力せる事判明致候右三名に対しては従来度々注意訓話を加えたること有之候も其効なく終に今回上述の如く実際運動に参加致候間本月八日退学を諭旨致す次第に御座候何卒右度此段及報回答也
 電文   ウナ電 T15/3/9
   本日の新聞に掲載せられし 貴校生徒三名諭旨退学処分の件至急報告せよ

参考 大正十三年度、十四年度、十五年度職員進退 五高人物史、ウイキぺリア