五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

クラウダーの人となり物語

2013-10-05 07:04:40 | 雑件
四日から小山紘先生の熊日講座「旧制高校発掘史」の最終シリーズが始まった。まずはオープン講座であったため「五高最後の米国人教師~~~ロバートクラウダーを追いかける」という題で行われた。小山先生は五高とも縁が深く父親は五高卒業後、東大を出られ五高教授になられた。学制改革で五高が熊本大学へ昇格したときは最後の学生課長を務められておられたし当時の宿舎は構内にあったものに住んでいたことなどからの導入があった。クラウダーに関しては自分の自著伝を書きたいので資料を送ってくれと言う一通の手紙から始まっていること等の説明があった。クラウダーの今日の話については私自身も今までも何回かまとめているのでそれを主に話の概略として掲載したい。

私は千九百三十四年、生まれ故郷アメリカ合衆国イリノイ州の小さい町べサニを出ることにした。このときの年齢は二十二歳であった。これまでに東イリノイ教員養成大学をまたジェイムズミリキン大学音楽学校を終了し卒業していた。当時日本の統治下にあったピュオンヤン(平壌)の外国人学校に職を得たのでプレジデントタフト号で日本の横浜に遣って来た。私は船から見た初めて見る日本の富士山の景色に魅了され、横浜港上陸と同時に自分の故郷に帰った感じを受けた。それは日本が私との連帯感、親近感を、そうして興奮を覚え、横浜市街地を人力車で街を一周してみた。今は朝鮮の平壌に行く途中であるので横浜から東海道本線で下関へ行った。車窓から見える日本の風景にまたまた感銘し楽しんだ。下関からは小さな船で対馬海峡の荒波を渡り朝鮮へ、釜山からまた汽車で平壌へ、そうしてピョンヤンの外国人学校の教師に赴任した。ピョンヤンの学校は建物、職員全てアメリカのものを移したものであった。生徒はほとんどがアメリカ人のビジネスマンや宣教師の子弟達であった。ピョンヤンでの生活は金剛山登山、ソウル博物館の見学、それから足を伸ばして、満州の安東それに万里の長城、台湾への旅行であった。旅行は日本交通公社出版の雑誌「ツーリスト」に毎月掲載している旅行記の執筆のための取材のためでもあった。ピョンヤンでの夏休み期間は東京へ出て日本画家望月春江に師事した。ピョンヤンの外国人学校の勤務は二年間で終えたので千九百三十六年東京へかえり、尾形乾女に師事して日本画を本格的に修行した。同時に生活の糧に井上英会話スクールの英会話教師を引き受けた。ここに、市河三基の娘晴子も学んでいた。丁度この時五高では英語教師ジェームス・アール・ベアードが昭和十四年七月三十一日で雇用期間が満了するのでその後任の外国人英語教師を探していたとき、この市河三基の紹介で英語教師として昭和十四年九月一日付けで採用された。そのため千九百三十九年の真夏九州の熊本に赴任することになった。着任するとすぐ第一宿舎に入居した。

五高生は黒いマントに帽子、高下駄を鳴らして歩く全くの高等学校生の姿であったが、彼等は西洋文化に対する関心が深く、音楽、哲学、宗教まで知識の吸収は旺盛であった。そのため五高に於いては、毎週木曜の午後は宿舎をオープンハウスとして開放し、学生の英会話の実習、生活習慣、マナーの質問を受けたので一部の学生からは、第二のハーンという名誉あるあだ名まで頂戴した。契約期間の二年間は全くの平和で福岡、阿蘇山、熊本近郊への小旅行はじめ、地元黒髪の商店主と友好的に楽しく過ごしていった。そんなことで私の五高の英語教師の第一期の二年間は言うまもなく過ぎたのでその上で第二期の二年間の契約も昭和十六年八月一日から昭和十八年七月三十一日までの契約は無事終了したが、千九百四十一年十二月八日日本がハワイ真珠湾を奇襲攻撃するめでは今までとおり平穏で平和な生活を送った。

千九百四十一年十二月八日(月)「日本とアメリカは戦争になりました。今やあなたは敵国人です。あなたはこのことをどう思いますか」。小林亨(しげる)井上英会話スクールの生徒、秘書として五高へ同伴する。連行する警官2人、敵、敵、の言葉の場違いの感じ
1日目、連行先・・・中央警察署・警官宿舎の畳の上、・・・翌日、何時間もの尋問、熊本刑務所へ独房、呆然自失に陥る。・・・人事不省の眠り、翌朝理性を取り戻す。運動、朝食、風呂、昼飯、夕食、就寝、・・・仏僧・・禅の黙想法・・・耐乏生活、耐える体力の養成、三ヶ月後ハンセン病療養所、シゲルと二人の生活、・・・日本人教授の訪問、虎眼石のカフス」ボタンの一対の贈物・・友情の本物の確認、建前の敵意の背後の硬く結ばれた友情、戦争でも壊すことは出来ない。一ヶ月後長崎へ移動、長崎捕虜収容所、オランダーの若者との付合い、横浜へ、バンドホテルに収容される。

第一次捕虜交換では日本に残りたいと希望した。修道士、ビジネスマン、宣教師、教師、・・交換船浅間丸で・、そのため残ったものは富士山麓山北の収容所カトリックスへ移動させられた。千九百四十三年九月、第二次捕虜交換がおこなわれたので、千九百四十三(昭和十八年)九月・・帝亜丸でインドモルムガオ港へ運ばれ、アメリカの船舶グリブスホルム号に乗り換えてアメリカ本国に送還された。そして生まれ故郷延べサニに帰ったが、これからの生活を考え大都市シカゴへ出た。シカゴのミシガン通りの花屋で働き、日本で修行した生花を生けたり、日本画が生きて、屏風、壁紙に日本画をテーマにした絵を描きその制作に没頭した。戦争中であるにも拘らず絵画はシカゴで売れ始めた。その上で日本の芸術品も収集していった。戦後秘書をしていたシゲルと連絡も取れたが、彼は兵役中に失明し彼もまた生まれ故郷の岩手の山村に隠遁していた。絵画の購入はロスアンジェルスの映画スターたちが主であったので1946年ロスアンジェルスはビバリーヒルズに移り住んだ、そこでアート制作会社を設立した。会社は順調に成長したので運営は人任せにして描画とデザイン制作に専念することにした。ここで隠遁画家として屏風、壁紙に日本画をテーマを中心として大いなる財をなした。

2002年5月にはクラウダー展「滅び行く日本の鳥たち」をロスアンゼルス・リトル東京で開催し2010年12月8日99歳で死去している。2013年6月26日イリノイ州ベスニーに埋葬された。パートナーであった棚野泰全氏が墓前に3つの報告を行っている。

一、日本画の師・望月春江の娘・鈴木美江氏が理事長をしている日本画院展(五月)にロバート・クラウダー賞(留学資金の提供)を設けたこと。第一回の受賞者は東京学芸大学   大学院一年の半本藍さんで来年2月に渡米し留学プログラムを棚野氏と相談する予定になっているそうである

二、山梨県立美術館で4日から始まる山人会主催展にロバートクラウダー賞を設けることで7日に表彰式があるそうである、

三、州政府にロバートクラウダー基金を登録した。その使途については棚野氏が現在検討中であるという事であった。

クラウダー語録から
「私は日本に生まれるべき人間だった。しっとりとした、雨の日は食べ物もおいしかった。何時までの秦勝寺で雨を見ていたかった。しかし戦争が私を大好きな日本から引き離した。私は以来、アメリカで自分の日本を作っている・
「人間のおごりが戦争のような愚かな行為や環境破壊を引き起こす。鳥たちが滅びるような地球にすればいつかは地球は滅びる」
「枯葉をごみのように扱わないでほしい。そこには自然が創ってくれた素晴らしい美がある。

棚野氏の話「私はクラウダーに日本画を教えてもらっただけでなく、日本人としてのアイデンチチとは何かを考えさせられた気がする」

故中島最吉名誉教授の話
「戦争体験の風化が進む中極めて意義深い作業に違いない。同時に考えなければならないことはクラウダーさんが自ら連絡を取るまで連行後の抑留生活の実態がわからないことで数多の知識人が連行の事実を知りながらその後のクラウダーさんに関心を示さず追跡調査をしなかったことは残念である。」

外事月報によると開戦の日に逮捕された旧制高等学校外国人教師は計六名に上る




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