五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

学年短縮と学徒動員

2010-02-23 03:26:15 | 五高の歴史
昭和17年9月には繰り上げ卒業が実施され昭和18年になると学徒出陣の命が下り、この年の6月15日には米空軍による初めての本土空襲があり、通年動員体制が開始された五高生は長崎の三菱造船、八幡製鉄、佐世保海軍工廠へと動員された。
10月13日には文科生の学徒出陣壮行会が行われ「天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動す。・・・・・・家門に立ち見送らむ父母にかく語らむ。・・・・・・あ丶我等往く、我等未だ学終えず、業成らず、されど晴れて召されるは日本男子の名誉、何ものかこれに過ぎる・・・・」の代表桟熊獅の悲壮な決意の答辞には、当時の学生の心情を推し測ることが出来る。
昭和20年7月1日の新入生歓迎パテイ―の最中に米空軍による熊本市中心部の大半を焼失させる大空襲を受けたが、この五高にはその被害は及ばなかった。
次にこの日の寮務日誌を転記する。(原文のまま)
昭和20年7月1日 日曜、曇 宿直者 池田一幸、中原勇、安達隆三 
記事 1年生の新入寮者約250名 未入寮者119名内1名清永繁(1-6)は戦死せし由、11時40分頃より翌3時頃まで敵襲あり市内の大部分及び近隣に大火災生じたるも本校無事。

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