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▲星飛雄馬の少年時代

▼星飛雄馬の少年時代(『巨人の星』、『男どアホウ甲子園』、
『ALWAYS三丁目の夕日』)

1958年(昭和33年)春、長嶋茂雄が巨人軍に入団し、この年が現役1年目であった。
『巨人の星』の冒頭では長嶋茂雄入団記念パーティー(兼記者会見?)があり、学生服姿の長嶋の背番号3の巨人にユニフォームが与えられた。普通、野球選手の入団を發表する記者会見は前年の秋のドラフトから年末にかけての時期に行われ、長嶋選手も同様だったらしいが、『巨人の星』は現役デビューの年の春になっている。なぜ、秋や冬でなく春か。星家の壁に野球のボール大の穴があって制球力の練習に使われており、もし、冬であれば穴が開いたままでは寒かっただろう。穴に球を通して制球力をつける練習は、のちに巨人に入る番場蛮もおこなった。

このパーティーで星飛雄馬(当時7~8歳)が長嶋茂雄に魔送球を投げつけた。

この長嶋入団記念パーティーの日の晩の模様は、アニメ版『巨人の星』では第一話「めざせ栄光の星」になるが、原作では単行本収録の際につくサブタイトルが最初の章だけついていない。原作の最初のサブタイトルは「大リーグボール養成ギプス」で、これはアニメの第二話「悪魔のギプス」である。
ドイツ語のGipsは日本で「ギブス」=Gibus(u)と「ギプス」=Gip(u)s(u)の二種類になる。

この年、飛雄馬は花形満の野球チーム・ブラック=シャドーズからスカウトされ、王貞治がいた草野球チームJと対戦。飛雄馬は野球を嫌っていたが、王との戦いで、野球の魅力を知り、一徹の特訓を嫌がらなくなった。飛雄馬のエピソードは、親父から一対一の野球を押し付けられていた少年が家出し、町の草野球チームに入って団体競技としての野球をやったら面白かったというだけの話である。

当時、川上哲治は星飛雄馬を「10歳くらい」と認識したが、実際は7歳から8歳、小学校1年か2年であった。

しかし、飛雄馬はのちに自分が八歳のころを回想しており、一徹の野球スパルタ教育を嫌がり、長屋の路地に放り出されたらしい。これは王との対戦のあととは考えにくいが、八歳の飛雄馬は第一話より幼く描かれている。このとき、飛雄馬はなぜかナイフを持っていたが、柱に文字を刻むのに使うだけだった。刃物を持った少年が親父に殴られ、泣くだけというのは、当時ならではのことであろう。

また、飛雄馬が小学5年のときの冬(年度の後半の2学期と3学期の間)、早朝のマラソンでいつものコースが工事でふさがれ、近道を選び、一徹から殴りとばされ、何度も蹴りまくられたらしい。このときの飛雄馬は十歳であろうが、不思議なことに第一話の七~八歳当時と同じように描かれていた。

アニメで星飛雄馬は契約未公開で臨んだ1969年の宮崎キャンプ(1968年度末)で記者から「いまどきの17歳」と言われており、原作でも沖診療所で「高校を中退していなければ高2」と言っていた。
また、星一徹を川上と同い年とすると、第1話で描かれた1958年の時点で川上哲治と星一徹は38歳(もちろん、誕生日以後)、星明子は15~16歳だったと想われる。

一徹は今なら児童虐待で逮捕されるか、長屋から追放されただろう。
もし、一徹が少年野球チームの監督になって、飛雄馬を初めから9対9の試合の中で鍛えていればよかったのだが、王との対戦のあとでも一徹は方針を変えようとせず、それが木造長屋での火だるまボールノックなど、危険で異常な特訓方法になっていった。この悪影響は飛雄馬が巨人に入団し、左腕を破壊して一度、失踪する(1970年秋または師走)まで続く。
木造長屋での火だるまボールのノックは花形のノックアウト打法を破るためだったが、危険極まりない。そのあと、飛雄馬は火だるまボールを蹴って一塁方向に送る訓練を毎日やったそうだが、どうやって火災を防いだのか不明。

花形はのちに甲子園で飛雄馬と対戦するので、飛雄馬より2歳年上で、当時、花形は9歳、小学校3年生。しかし、当時、飛雄馬の学校の上級生で小学校6年の赤川が花形を「花形さん」と「さん」づけで呼び、敬語で話していた。

『巨人の星』によると、1958年当時、王貞治の家の「五十番」というラーメン屋の壁には川崎のぼるのサイン色紙が貼ってあり、餃子が50圓、炒飯が60圓、モヤシソバらしきものが100圓だった。某球団のスカウトが王に示した契約金は2000万圓。今でもすごい金額である。

この年の春、長嶋茂雄は国鉄スワローズの金田正一と対戦し、4打席4三振。日本シリーズでは巨人と西鉄ライオンズの対戦となり、西鉄は三連敗のあと、稲尾和久を起用して4連勝。
『男どアホウ甲子園』によると、当時、3~4歳だった藤村甲子園は、甲子園球場で巨人×阪神戦の直後、長嶋茂雄に向かって「おれ 甲子園いうねん。おにいちゃんキリキリまいさしたんねん」という宣言した。

あの『ドカベン』の山田太郎、岩鬼正美、里中智、殿馬一人(または数人)は、明訓高校編の設定で計算すると1958年度(1958年春~1959年春)生まれになり、山田は1958年5月5日生まれ、岩鬼正美は1959年4月1日生まれになる。彼らの場合、高校時代の描写が長く、星飛雄馬の1年のずれなど、比較にならない。

原辰徳もこの年に生まれた。

日本シリーズは読売ジャイアンツと西鉄ライオンズで、ライオンズの稲尾投手の活躍でライオンズが日本一に。稲尾投手は「神様、佛様、稲尾様」と呼ばれた。
50年後の2008年、やはり日本シリーズは読売ジャイアンツと西武ライオンズで、この年の北京五輪では女子ソフトボールチームが金メダルを獲得(男の野球は4位でメダルなし)。女子の上野投手は日本シリーズで始球式をつとめた。

この1958年、東京タワーができた。11年後の1969年正月には飛雄馬と明子がこのタワーの近くに引っ越すことになる。

『ALWAYS三丁目の夕日』もこの1958年が舞台である。原作漫画のタイトルは『夕焼けの詩』だった。

この時代は若い世代で戦争経験者が多く、戦時中のことが話題になっていたようだ。
当時の人にとって「終戦」は13年年前であり、例えば西暦2008年における1995年の阪神・淡路大震災のようなもので、1958年当時、中学生の年齢より上の世代は戦争を経験していたわけだ。

この年と翌年、『愛と死をみつめて』の大島みち子氏(1942~1962)の病気(顔の軟骨肉腫)が發病。1960年に入院することになる。

1958年、日清チキンラーメンができた。大塚食品のボンカレーは68年から、日清のカップヌードルは71年からである。

1958年、テレビで『私は貝になりたい』が放送されたが、主人公のモデル・加藤哲太郎氏は生き延びて、この年に出所した。

1959年(昭和34年)春、王貞治が巨人に入団。
『ALWAYS続・三丁目の夕日』はこの年が舞台。当時、皇太子だった明仁氏と美智子氏の「ご成婚」の年。
この年、のび太の両親・のび助と玉子が婚約したらしいが、真相は、この年の11月3日、公園で両者が些細な誤解で喧嘩し、決裂を恐れたのび太が「ドラえもん、なんとかしてくれえ!」と頼んだ結果。ドラえもんは「ヒトマネロボット」を出し、このロボットのび助に化けて玉子に求婚し、次に玉子に化けてのび助に求婚した(「プロポーズ作戦」)。

推定1959年、星飛雄馬が8歳のとき、飛雄馬は野球を嫌がり、一徹によって長屋の夜の路地に放り出された。これは1969年の夏に当時18歳の飛雄馬が長屋で回想したのだが、1959年で飛雄馬少年が野球を嫌がったとすると、1958年に王貞治と対戦して野球の魅力を知ったあとになる。

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2008年2/28(東京裁判~「戦後」復興期~星飛雄馬プロ入団)
2008年2/28(「戦後」復興期~大リーグボール1号)

関連語句
1958 星飛雄馬 三丁目の夕日 1959 私は貝になりたい 愛と死をみつめて 長嶋茂雄 プロポーズ作戦
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