gooブログ ものがたりの歴史 虚実歴史

▲「戦後」復興期

▼「戦後」復興期(『はだしのゲン』、『いのち』、『東京裁判』、『プライド』、『李香蘭』、『純情きらり』、『巨人の星』)
満洲以外で「終戦」前後を描いたものには大河ドラマ『いのち』、『山河燃ゆ』などがある。
朝鮮における日本の統治が終わった「終戦」から朝鮮戦争までは『海峡』で描かれている。

『瀬戸内少年野球団』は「終戦」直後の淡路島を描いている模様。
「終戦」前後、探偵・金田一耕助がさまざまな事件を解決(『犬神家の一族』、『悪魔が来りて笛を吹く』、『八墓村』)。

星一徹の復員、李香蘭の帰国
1946年(昭和21年)、復員してきた星一徹(当時26歳)は当初、戦争で肩を壊しており、野球をする気がなかったが、妻・春江が一徹のそばに野球用具を置くことを繰り返し、一徹は壊れた肩をおぎなう魔送球を編み出して巨人に復帰。
しかし、魔送球のように急カーブする変化球は練習の段階で手首や肘を痛めそうなものだ。結局、川上哲治から「投手で言えばビーンボール」という理由で批判され、巨人を去り、なぜか、他球団に入らず、引退。魔送球はのちに星飛雄馬の大リーグボール2号として復活するが、番場蛮のハラキリ・シュートや犬飼知三郎(『大甲子園』)の対角線投法のほうが魔送球の原型に近い。

沢口靖子主演『さよなら李香蘭』によると、この年、山口淑子氏が帰国寸前で周りから「李香蘭」と見破られ、日本人だという真相を話して帰国させてもらい、乗り込んだ船のラヂオ(=ラジオ)放送で偶然、自分の歌を聴いたらしい。
そのときの曲は「夜来香(Yè-lái-xiāng)」だったと想う。

「夜来香」と「何日君再来(Hé-rì Jūn Zài-lái)」はその後、テレサ・テン(1953~1995)に受け継がれる。
上戸彩主演の『李香蘭』のホームページによると、李香蘭は昭和13年(1938年)に満洲映画協会の代表として初めて日本に来たとき(李香蘭は満洲生まれ)、入管係官から「一等国民の日本人が三等国のシナの服を着て、シナ語などしゃべって、恥ずかしくないのか。それでも日本人か!」と吐き捨てられたらしいが、その後、日本人がシナの服を着る機会は戦後、増えているし、酒井法子がシナ語で歌い、福原愛がシナ語で挨拶している。これも先駆者ゆえの苦難を味わった李香蘭の足跡あればこそであろう。

また、『あぶさん』の景浦安武(かげうらやすたけ)はこの1946年の12月17日生まれらしい。Wikipediaの史料では新潟県新潟市出身。のちに南海ホークス(→ダイエー→ソフトバンク)の打者となる。

1947年、インドが独立。
Mahatma Gandhi(1869~1948)の生涯が映画『ガンジー』で描かれている。

1948年(昭和23年)ごろ、『純情きらり』のヒロイン・桜子はこの年に病死したらしい。桜子の息子・輝一は最終回で赤ん坊だったが、当然、団塊の世界に入り、西暦2008年の世には定年を迎えて、なお、自己主張のやかましいオヤジになっていることだろう。

『ドラえもん』の「ママのダイヤを盗み出せ」によると、昭和23年7月10日、のび太の母・片岡玉子の母親が持っていたダイヤの指輪が「二人組によって盗まれた」。実際は玉子の母がひそかにドラえもんとのび太に譲っていた。
玉子の実家があった町で、ドラえもんとのび太が降り立った路地には煙草屋の前に圓筒型(円でなく圓)のポストが置かれ、木製らしい電柱に「三丁目町會」と書かれてあった。
当時、幼いころの玉子がお嫁さんごっこに指輪を使った。大人になった玉子からドラえもんたちが聴いた指輪の値段は「何千万」圓だったが、幼い玉子がお嫁さんごっこをしているとき、ドラえもんとのび太は「何十万円もするダイヤをおもちゃにするとは」と言っていた。
紙芝居の『黄金バット』が来て玉子は指輪を放り出した。これはテレビ朝日版の初期のアニメでも同じ。
実はドラえもんとのび太が玉子の家に届けており、玉子の母はむすめを教育するため、指輪をのび太たちに譲ったというのが真相。玉子の母が彼らに継げたところでは、ダイヤでなくガラス製だった。
2007年8月17日放送のアニメ版では玉子が7歳のときの8月17日が「過去」の舞台で、驛前のレコード屋で松田聖子の新曲發表、サイン会で流れていたのは「赤いスイートピー」(1982年1月21日發賣)だった。
お嫁さんごっこで神父(牧師?)役の少年の台詞は、初期テレ朝版のアニメでは「汝と汝は今何時」だったが、2007年版では「たかさごや…」になっていた。

水原茂が語ったシベリア抑留の地獄
日本兵の多くは赤紙で召集され、軍服を着せられた日本市民であるが、ソ連によってシベリア抑留の地獄を味わった。

1969年初めに水原茂が星一徹に語ったところでは、水原は昭和17年(1943年)に戦争に取られ、戦後も4年間、極寒のシベリアで強制労働を経験(アニメ版『巨人の星』・第96話「水原監督と父一徹」)。シベリア鉄道敷地のための路盤作りの作業で、凍った地面にツルハシが立たない零下30度の寒さでの重労働により、多くの戦友を失ったらしい
また、新宿住友ビルで観た展示によると、当時、あの三波春夫もいて、歌を歌って他の兵士をなぐさめていた模様。

モンゴルには日本人抑留者の慰霊碑があるようで、2007年(平成19年)に皇太子が訪れた。

アニメ版『巨人の星』で画面に映された1949年(昭和24年)7月15日の「第10次歸國者名簿」に水原茂の名が書かれていた。24日の午後、水原は古巣の後楽園球場に戻り、七年ぶりに踏んだグラウンドの土の上で、満員の観客に「水原、ただいま帰ってまいりました」と落涙して挨拶。
この年だったか覚えていないが、大河ドラマ『いのち』の主人公(女医)の父親もシベリアから帰国したらしい。財閥解体、農地改革の時代を描いた作品だったと想う。

この年、1949年(昭和24年)にのび太とドラえもんが洋画家・柿原を訪ねた。アパートは「落目荘(おちめそう)」。のび太たちは当時、中学生だった父・野比のび助の描いた絵を購入(『ドラえもん』・「この絵600万円」)。

おおよそ、このころに『巨人の星』の花形満、左門豊作、伴宙太が生まれたはず。

1949年、中華人民共和国成立。
文学『百合花(Baihe-hua)』は国共内戦を描いており、電脳網上の情報では1958年の作品らしい。
中国共産党を支持する側にとって、歴史上、国民党は「悪玉」だろうが、第三者から見れば共産党も国民党も国のために戦い、犠牲者が哀れなのは同じだ。かつて、日本との戦いで共闘した共産党と国民党が21世紀になって接近し始めた。もし、中国人が日中戦争での日本人、朝鮮戦争での韓国人を犠牲者として悼(いた)むことができれば、彼らも国家から脱皮した地球市民となれるだろう。

中国大陸の中華人民共和国政府は台湾の独立を阻止しようとしているが、実態は逆で、大陸と台湾で中華民国だったのが大陸だけ人民共和国として独立し、台湾がそれを長年承認しなかっただけの話だ。台湾の独立問題は、本家の中華民国だった台湾が人民共和国に参加するかしないかの問題である。
中国政府は台湾もチベットも同じ国になるのが平和だと想うだろうが、始皇帝の秦に併合された趙が祖国の復興を目指したように、併合された側は国を取り戻そうとする。支配者から観ればこれが「乱世に逆戻り」ということになる。
朝鮮の「三・一独立運動」も同じだ。

ゲンたちは知り合いの老人が書いた被爆の記録を本にしようとしたが、アメリカが原爆の悲惨さを秘密にし、言論統制をしていた。ゲンは「先生は『アメリカは自由の国だ』と言うとったが、嘘じゃのう」(一部要約)と名言を残した。
隆太の情報で、刑務所で本を作ってくれることが判明。ゲン一家と旧知の朴氏の協力で紙を手に入れ、本はできたが、すべて市民の手に渡ったあと、ゲンと隆太は進駐軍によって一時、抑留される。ほかにも日本人が閉じ込められており、アメリカ側は朝鮮戦争用のスパイを育成しようとしているようだった。
ゲンの母親は「ピカの毒」で他界したが、火葬の際、熱で骨が破壊され形が残らなかった。これは作者の実体験と同じである(『はだしのゲン』戦後編、『おれは見た』)。

1950年(昭和25年)、朝鮮戦争が始まり、韓国では「北韓が侵略してきた」という考えが主流のようで、中国は「美国が中国を侵略した」と解釋しているようだ。
中岡元は「日本にアメリカの基地がある以上、日本も戦場になるかも知れない」と言っていた。
ゲンの友人・隆太が設立直後の廣島カープを応援。ゲンの恩師は警察予備隊の設立に怒って酒を飲んでいた(『はだしのゲン』戦後編)。戦争は国際情勢が原因であり、日本一国が戦争をするかしないかと考えて、日本国内だけに戦争の原因を求める議論では、戦争は防げない。

ゲンの主張の中で、原爆への批判に関しては自分の実体験に基づいているので信頼できるが、「三光作戦」に関して中国側の情報をそのまま引用しているだけのようで、これについては「三光」自体が日本語として不自然であるなど、疑問が多い。
ゲンは学校で歌わされる「君が代」を「眠くなる」として嫌悪したが、ただ、嫌がるのでなく、代案として、あの「青い山脈」を提案し、みなで歌った。それにひきかえ、日本で「日の丸」、「君が代」が嫌な人たちは代案を出さないようで、無責任な万年野党である。聴いていて眠くなるなら「軍艦マーチ」でもいいことになるし、「君が代」を明るくアレンジすればいい。台湾の徐姉妹による歌手グループSOSはアルバムで中華民国の国歌をディスコ調にして歌った。

ゲンたち廣島市民は焼け跡にバラック(掘っ立て小屋)を建てて住んでいたが、廣島氏役所がこれらを「不法建築物」として、「平和都市建設」のために破壊。ゲンが住んでいた家も破壊されることになった。ゲンは「法律」に不満を示し、「多数決で決まったらそれでいいのか」、「十人中、一人だけ意見が違ったら、その一人の意見をとことん聞いてやるのが本当の民主主義ではないか」(要約)と述べた。多数決が少数者を迫害する危険性が戦国時代にもあったことは『忍者武芸帳』で記録されている。
ゲンと同居していた二人の兄は事前に家を離れ、バラックは破壊された。ゲンは仲間の隆太、ムスビ、勝子が住んでいたバラックに移ることになり、この家は彼らが廣島から去るまで無事だった。

1951年(昭和26年)前後、星飛雄馬が誕生した。
具体的には1950年春から1952年春まで。誤差が大きいのは、青雲高校入学の年が途中で1年あとにずれたせいである。伴宙太、花形満、左門豊作は星飛雄馬より2年先輩である。
改革派知事の問題点を説明するための比喩として、『水戸黄門』を「つまみ食い的な問題解決」とした片山善博氏も飛雄馬と同世代で1951年生まれである。
日本とアメリカでサンフランシスコ講和条約。吉田内閣については『小説吉田学校』で描かれる。

花形満は幼稚園の段階で五年ほど英国に留学したらしいが、それが4歳の初めから8歳の終わりまでとすれば、およそ、1953年から1957年までになる。

1954年(昭和29年)、アメリカによるビキニ水爆実験で第五福竜丸が被爆。この影響でゴジラが出現した。

原作『侍ジャイアンツ』の番場蛮は1970年度で高校1年だったので1954年度生まれ。『男どアホウ甲子園』の藤村甲子園も1954年5月5日生まれ。『アストロ球団』の主人公たちも昭和29年(1954年)9月9日生まれである。

この年に生まれた安倍晋三氏が、2006年秋から1年間、日本の首相になった。日本の首相としてはまだ、若すぎたということか。安倍晋三は野比のび太より10歳年上、福田康夫はのび太の父親・のび助より2歳年上である。

1955年、当時、アメリカのバスで黒人と白人で座る場所が区別され、キング牧師がバス乗車をボイコット。キング牧師たちは勝利するが、南アフリカでは1991年の人種隔離政策廃止まで続いていた模様。しかし、日本では痴漢を防ぐ意味で女性專用車が設けられており、平等にするのがいいとは限らない。「男女席を同じうせず」の時代がよかったことになる。沖縄でもアメリカ人による犯罪を防ぐため、沖縄県民とアメリカ人の住む場所を大きな塀で仕切ったらどうか。

1957年、あのV・スタルヒンが交通事故死。
長女のナターシャ・スタルヒン(Natasha~)は栄養士になっている。

この時期、花形満は5年間の英国留学の最中で、エリザベス女王と握手した経験もあるらしい。満が帰国して飛雄馬と出会ったのは1958年春のことである。

前後一覧
2008年2/28(東京裁判~「戦後」復興期~星飛雄馬プロ入団)
2008年2/28(「戦後」復興期~大リーグボール1号)

関連語句
李香蘭 ママのダイヤ スタルヒン はだしのゲン 純情きらり
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「「終戦」~1950年代」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事