星月夜に逢えたら

[hoshizukiyo ni aetara] 古都散策や仏像、文楽、DEAN FUJIOKAさんのことなどを・・・。 

栗原はるみさんをめぐる話。

2023-09-06 | 大切な人を失って

9月になるとやっぱり夫の最期を思い出す。もう2年前のことなのに。

当時、グリーフケアのためにと思い何冊かの本を買った。おそらく個人差があると思うけれど、同様の経験をした他の人の話に共通の感情を見出し、共有することはできる。こんなにひどく落ち込むのは自分だけではないのだと、それがわかるだけでもほっとする。ただ、他の人は他の人であり自分は自分。個人的な痛みや喪失感はけっきょくは自分だけで持ち続けるしかないのだと知ることになる。
 
そんな日々、断片的でありながら、自分の悲しみや苦しみとぴったり心情が重なり、一緒に時を過ごしてくれた歌や読み物、印象深いインタビュー番組等がある。
 
今回は、栗原はるみさんをめぐる歌と新聞連載の話をメモしておこう。
栗原はるみさんのパーソナルマガジンの最終号100号を予約購入したのが2021年9月の初め。夫の入院が決まる前だったかと思う。雑誌の最終ゲストが佐野元春さんだったのが購入動機だった。
これは偶然だったけど、佐野さんをゲストに招こうと決めた理由が、ご主人を亡くされたことと関係あった。夫である栗原玲児さんを亡くされて1年、どうしようもなく寂しくて落ち込んでいた頃に佐野さんの歌に出会って元気になれた。だから、自分から会いたいと願い、思いを伝えて雑誌の最後のお客様として我が家に招いたのだそう。
 
佐野さんがプレゼントとして携えたのが「或る秋の日」というアルバム。佐野さんには珍しく私小説的な曲が詰まったCD。ただ、受注生産限定盤で高価だったため私自身は未購入だった。(ごめんなさい。)だからこの時点ではアルバムは聴いてはいない。
・・・と、ここまでが伏線。
 
 
夫が亡くなって1年。誰かと楽しく話していても夫の話題になるとつい涙声になってしまう。それでも毎日は泣かなくなっていた。微妙な感情バランスの頃、偶然にまたまた栗原はるみさんの名前を目にする。朝日新聞の記事に。
読んでみると、とても共感できる言葉があるではないですか。
「人間って、どうしても、良かった時に戻ろうとする。戻れないのにね。悲しい道と楽しく生きようとする道があり、最近やっと、簡単には悲しい道への橋を渡らないように制御できるようになりました。でも、夫を失った悲しみや孤独は変わらず持っています。」
これだ、こういうことだ!と納得。3年経ったはるみさんの素直な言葉に感謝した。
 
そして、佐野元春さんのアルバムは無事お手頃価格でDL。
その中の「最後の手紙」については、離婚する夫が妻に宛てた手紙だとするコメントを見たけど、私にはどうしても、自分の死期を知った夫が妻に宛てた歌にしか思えない。歌詞を自分用に解釈して、自分のためだけにあると思い込むのはリスナーの役得である。
 
 
「最後の手紙」より、以下一部抜き書き
・・・
思い出は美しい 
そうであってほしいよ
切ない時を重ねて 
深く想い合ってきた ふたり
だからどうか いいことだけを
心に留めておいてくれ
けして酷い言葉じゃなく 
いつか君に贈った
あの歌を心に留めといてくれ
 
・・・
 
だからどうか、いいことだけを心に留めておいてくれ
・・・ここで滂沱の涙。
喧嘩した時の言葉を時折思い出して苦しくなっていたけれど、最後はこんなふうに思っていてくれたらいいな、と。
遺された者を救済してくれる歌です。勝手ながら、ありがとうございます!!
 
今年も悲しい道への橋を渡ってしまいがちになる9月。
でも、今は確実に楽しいことも待っている。
心の非常時に必要な歌や言葉があるように、心平和な時にも必要とされる歌や言葉があるよね。
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私の好きなDEAN FUJIOKAの曲とある本の関係。

2023-01-10 | 大切な人を失って

DEANさんの曲の中から好きな歌、思い出の曲を1つ選べと言われても全然絞れない。でも、救われた曲というか、ある時期ずうっと繰り返し聴かずにはいられなかった曲がある。誰かに聞いてもらうような素敵なお話でもないし、短い文章にまとめることも不可能。第一、その気持ちがなんなのか自分でもわからなかった。

その曲はYouTubeにもアップされていない。↓ インスタグラムで一部が聴けるのみ。


DEAN FUJIOKA『Legacy』ーーディーンさんが作ったクリスチャンソング。


2019年の秋の終わり頃からそれは忍び足でやってきて、12月には見え隠れ。その翌年にははっきりと姿を現した、、、夫の体が最悪の病魔に侵されていることがわかったのだった。すでに手術も不可能。命の期限がいつ頃であるかも知らされた。
寒い季節で、私は『Legacy』を通勤帰りに毎日イヤホンで聴き、聴き終わったらまた聴いて、時には立ち止まったままじっとその曲を聴いていた。聴きながら泣いたこともあったけど、あの時はあの曲に自分を委ねる感じ。とにかく聴き終わったら家の前の最後の坂道はしゃんと背筋を伸ばし、よし歩き出そう、ってそんな気持ちになれた。
それから時が経って、ディーンさんがSNSで若松英輔さんの『生きていくうえで、かけがえのないこと』という本を紹介してくださって、すぐに図書館に予約した。『生きていくうえで、かけがえのないこと』は二人の著者が複数の同じテーマについて書いた競作で、若松英輔版と吉村萬壱版があり、私はその両方とも読ませていただいた。若松さんの方は言葉の意味や世界をとても丁寧に紐解くような視点で書かれていた。たしか、どのテーマから読んでも構わないというような序文があって、本を手にとった時点でもう夫を見送ってしまっていた私は「悲しむ」というテーマから読み始めた。ところが、一番私の心に刺さり涙がぶわああっと溢れてしまったのは「喜ぶ」というテーマだった。本を借りた時、しおりが「喜ぶ」のところに挟まっていたのは偶然なのか。
そして、読んでいる途中からなぜあの時期に自分が『Legacy』を聴き続けたのかが氷解するような思いになった。
少し引用させていただく。

 

若松英輔『生きていくうえで、かけがえのないこと』より

もっとも大切なよろこびは、避けがたい悲しみと共にあるように感じられる。よろこびとは、内なる悲しみを育ててゆくことのようにすら思われる。

「よろこぶ」は、喜ぶ、悦ぶ、歓ぶ、あるいは慶ぶ、とも書く。喜楽、歓喜、悦楽、慶喜という感情も、もちろん自分のなかにある。しかし、どれも、あのかけがえのない「よろこび」とは違う。
・・・・・・(中略)・・・・・・
漢字辞典を見ていたときだった。「喜ぶ」とは、もともと人間がではなく、神が喜ぶことを意味したというのである。


また、若松さんは内村鑑三の著書の言葉を引用し、それを次のように解説してくれる。

しかし、神が本当に私たちに求めているのはそうした目に見えるものではない。神は、心を求めている。神は人が内なる、朽ちることのない何かに目覚めることを喜ぶ。だからこそ、悲しみや嘆きによって砕けたありのままの心をささげよ、というのである。


さらに、こんなことも。

大切に思う人との別離はときに、堪えがたい悲しみとなる。しかし、そう感じることができるのは、そこまで愛おしいと感じる相手に出会えているからだろう。出会うことがなければ、別れは存在すらしない。

・・・・・・(中略)・・・・・・
内なる悲愛の誕生をまざまざと感じること、人生にこれほどのよろこびがあるだろうか。


読みながらハッとした。あのときDEAN FUJIOKAの『Legacy』には特別な何かを感じ、自分の悲しみ、痛み、不安、恐怖をすべてさらけ出しながら祈るような気持ちで聴いていたような気がする。ひたすらすがりついていたのだと思う。クリスチャンソングだからかどうかはわからない。
そして、この本を読んで、死別直後は悲痛しかなかった気持ちから自分にも少しずつ変化が訪れているのだと気づいた。図書館で借りた本のしおりは再び「喜ぶ」のページに挟んで返した。

DEAN FUJIOKAの曲とディーンさんが紹介してくれた本の関係、ようやく書けた。この投稿を『DEAN FUJIOKA』の項目ではなく、『大切な人を失って』という新たに設置したカテゴリーに入れておこうと思う。


<Legacyの歌詞↓>
そして、何度も Legacy。 (2019/1/31の投稿)

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