岩手県一関市藤沢町の商店街は竹駒・八坂神社前で終わる。道は左に曲がる枡形。
岩手県藤沢町の商店街は、南から北に向かって緩やかな上り坂道に沿う。一様に赤ペンキのトタン屋根が並ぶ。左右併せて100軒ほどの商店街だが、開いている店舗は2割に満たない。郊外に新たな大型店ができ、客を奪われた、と月並みの台詞でシャッター商店街の説明ができそうである。
藤沢町には国道もないし、鉄道もない。忘れた頃に隣町へのバスが来るだけである。商店街はかつての在郷町としての繁栄が、いつの日にか戻ることを期待しつつ、半ばあきらめているようでもある。
在郷町とは近世以降、周辺農村と結びついて経済的利益を受けた田舎町のことである。農業に必要な種子・肥料・農具を周辺農家に売り、農家からは米・麦などを買い集めた。不作ならば農家は在郷町の商人からの借金を返済できず、小作・地主の身分関係になる。在郷町の商人は、農民に必要な資材を売って儲け、農地を貸して儲けたのである。地主として所有する田畑が広ければ、貧農を相手の日銭稼ぎをしなくても生計は成り立った。ただし、これは1948年の農地改革以前のことである。農地改革で小作農地を農家に返還したあとは、商業1本で生活を成り立たせることになった。
竹駒神社・八坂神社から見た藤沢町中心街。鳥居前が枡形である。
1960年代、藤沢町の商店街は商業だけで生活が成り立った。高米価政策により零細自作農は稲作収入を増やし、農閑期に出稼ぎで現金収入を得、そのカネが藤沢の商店街で消費されたのである。電器店、洋服店、レストラン、農機具店など、今では商店街では目立たないが、当時は派手な存在であった。商店は家族経営であり、人件費はかからなかった。電気・ガス・水道・税金・保険・年金負担もわずかであり、商店の経営は簡単に成り立った時代であった。
1970年代、米減反政策、出稼ぎ減少、石油危機などは藤沢町の商店街を直撃した。現在の藤沢町の商店街の景観は1970年代のままである。
1979年から2006年まで、佐藤藤沢町長の強力な政治力により、町政は町民病院を核とする福祉を中心に展開、世間の注目を浴びた。佐藤町長の名声は天下にとどろいた。一方、商店街の衰退を止めるために町全体の経済の底上げする意図で、総額400億円の国営農地開発事業に乗り出したが、思うような成果を得られなかった。この負債の残り100億円が後の一関市との合併交渉難航の原因となった。そして佐藤町長は病気を理由に町長の座を降りた。
竹駒神社・八坂神社は商店街を守ってきた。1神社が2神社である。
鳥居の扁額には竹駒神社(岩沼)と八坂神社(京都)の2神社名が記してある。元来、藤沢は宿場町ではないから馬の需要は明治以降のことであり、藤沢の竹駒神社は明治以降にできた。八坂神社も明治招元年に祇園感神院から改められた名称であり、藤沢の八坂神社は明治以降にできたとみなすことができる。氏子の建てた神社の建物は豪勢であり、藤沢は在郷町として、1970年代までは商業が繁栄していたことが分かる。
この神社において、商店街が独占的利益を続けるための策が練られた。商店の新規参入禁止、商品の値引き販売禁止、地主としての地代取り分や農家貸付金の利息統一、祭礼分担金額決定など、各商店の利害にかかわることが決められた。神社における決定は、商店街の申し合わせである以上に、神意の受託としての重みがあった。
神社前の枡形までが商店街であり、ここを外れて商店を開業すれば、神罰として商店街からは厳しい制裁が課せられた。
藤沢商店街の再生の議論はの場は、神社から役場に移った。
藤沢町商店街の再建策は、神社における話し合いから、役場における町議会に移った。1993年から2年間続いたNHK大河ドラマ「炎立つ(ほむらたつ)」の前九年の役、黄海の戦い(1057年)は藤沢町黄海(きのみ)が戦場であった。このドラマの放送を藤沢町PRの一助とするため、商店街では赤に白地の炎の旗を飾り付けた。TV放送から25年、色はさめたが、今もその旗が商店街を飾っている。他に商店街をPRする機会はなかったのである。町民病院の大活躍や国営農地開発事業の巨額赤字は、商店街の活性化とは無関係であった。
神社は商店街の独占利益を保障する役割を果たしていた。しかし現在、役場、農協、町民病院、大型スーパーは商店街から離れた郊外に立地する。竹駒神社・八坂神社は商店街の守護神とはなり得なかったようである。
藤沢町の商店街は、竹駒・八坂神社前が終わる。道は枡形であり、急角度で曲がる。
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