こんにちは、ぴっぐです。
私は行き方には2種類あると思っています。1つは適応で、もう1つは周りを変えることです。
適応とは、他人、環境、自然など、自分以外の基準に合わせることです。多くの人は、適応を選ぶように思います。
他人等の基準に合わせる過程で適法な行為をする人もいれば、違法な行為をする人もいます。違法としても取り締まられないだけで自己に都合のいい行為も沢山ありそうです。
周りを変えるとは、自分の基準に合わさせることです。言い換えると、私に、他人を適応させることです。
周りを変えるとは、自分の基準に合わさせることです。言い換えると、私に、他人を適応させることです。
適法の典型例は議員やNPOですが、最近はgoogleはじめ民間事業者が社会のルールを変えることもあります。違法の典型例は革命ですが、安倍首相を殺害した被疑者も社会を変えつつあります。
多くの人間が適応を選ぶのは、適応による不利益が、それほど多くないからと私は見ています。仮に不利益が多くても、保育園以降、周りに合わせることを叩きこまれている日本人なら、適応できない自分に帰責性があると考えるように習慣化されていると私は見ています。その結果、合わせられない自分に責任があると勘違いして、最終的に自殺するというメカニズムです。これは何も企業だけでなく、社会にとっては都合がいいことです。社会つまり多数派にしてみれば、多数派と異なる人間は自責して勝手に死んでくれますので、多数派がルールを変える必要がなくなり、自分達に都合の良い状態を享受し続けられるからです。ブラック企業相手に裁判をせずにバンバン辞め続ければ、
多くの人間が適応を選ぶのは、適応による不利益が、それほど多くないからと私は見ています。仮に不利益が多くても、保育園以降、周りに合わせることを叩きこまれている日本人なら、適応できない自分に帰責性があると考えるように習慣化されていると私は見ています。その結果、合わせられない自分に責任があると勘違いして、最終的に自殺するというメカニズムです。これは何も企業だけでなく、社会にとっては都合がいいことです。社会つまり多数派にしてみれば、多数派と異なる人間は自責して勝手に死んでくれますので、多数派がルールを変える必要がなくなり、自分達に都合の良い状態を享受し続けられるからです。ブラック企業相手に裁判をせずにバンバン辞め続ければ、
ブラック企業は体制を見直す必要がないのに似ています。自殺対策はじめ、国や企業がパワハラ問題などに本格的に取り組まないように見える潜在的理由と私は考えます。
では適応を不得手とする人はどうしましょう。
適応以外の手段は、適法に他人を変えるか、違法に他人を変えるかです。
適応を不得手とするとは、何も人間関係に限りません。要は自分以外の基準の習得が苦手であるということであり、自分以外の基準とは法律であれ会計であれなんでも当てはまります。
となると残された道は違法行為です。
秋葉原にトラックで突っ込んだ加藤さんも、安部元首相を殺した被疑者も、自分にとって最良の手段を選択したと僕は考えています。その行為をしたから他人を100%変えられるとは言えませんが、現状が不利益だらけなのですから、ここで命を失うという不利益を選んでもさしておおきな不利益と言えないこととなりそうです。
しかも安部元首相事件は現に社会を変えつつありますから、むしろ彼らの望んでいる方向に動いています。
端的にまとめると、多数派が変わらない限り、少数派は定期的に違法行為によって均衡を破るという行動に出ざるを得なくなってしまう。
「いやいや本当に他人に配慮する優しい人なら、関係ない他人を巻き込むアタックなんかしなくない?」という反論も確かにあり得ます。そういったマインドを少数派が持つならば、勝手に自殺していくだけになりますます多数派は安泰になり何も変わりません。
そうなると「せっかくなら、少しぐらい変わる可能性があるといいな」と思う人ほど、神風アタックに近づくという説明でも構いません。
「お互いが自己都合ばかりを主張し合うことで社会は良くなると」いう、競争や闘いがベストソリューションというアメリカ的発想の行き着く先とも言えます。
この「多数」の分野がその時々で異なるだけで、多数VS少数という構図にて、「多数が自己に有利な行為をする限り」、均衡を破るのに違法行為は「少数にとっては自己に有利」ということを図らずしも示している気がしてやりきれなくなります。
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