エホバの証人の苦しみの原因について書きます。
さあ今日も書いていきます............
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順番にお読みください。
1. Mind Darkness No.149 2020/02/13
2. Mind Darkness No.150 2020/02/15
3. Mind Darkness No.151 2020/02/16
4. Mind Darkness No.152 2020/02/17
5.Mind Darkness No.153 2020/02/18
となっております。
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様々なことに関して
・楽しいと思うことの何が駄目なのだろうか
・嬉しいと思うことの何が否定されねばならないのだろうか
・喜びを感じることの何処に欠点があるのだろうか
と常に考え続け苦しみ続けてきました。
これらは聖書に書かれており楽しみ、喜び、嬉しいと感じることこそがエホバが人間に望まれていることだと確信しています。
わたしはハルマゲドンを生きて通過できるなんて思ってもいませんし、将来なんて不確定要素の多いものに希望なんて見出すことはできません。
そもそもの話ですが、「将来の希望があるという理由で」エホバに信仰を置くこと自体が誤りです。
エホバを信じているのであればどのような状態でも信仰を持ち続けるでしょうし、終わりの日でなくともクリスチャンらしく行動するでしょう。
エホバの証人の多くは「終わりの日が来るから」伝道に出ています。
終わりの日だからこそ「緊急感を抱かなければならず、伝道活動を行わなければならない」とよく書かれています。
しかも常に気を引き締め油断してはならないとも「ものみの塔聖書冊子協会の資料には」書かれています。
ここで考えるべきはエホバの証人として学び続けていると、「休憩する」ことや「休む」という概念が無くむしろ罪悪感を煽るような書き方しかされていません。
ごくたまに休んでもいいんですよ的なスポットがありますが、その何倍もの量で不安を煽ることを主に書き続けています。
人間はマイナスのことに反応するようにできています。
心理学的に見てもいいことに対する反応の7倍ほどマイナスのことに対して反応をするようにできています。
つまり不安を煽る量と心を満たされると感じる量の割合は1:7程度は最低でもなければならないのです。
1:7でも少ないぐらいにマイナスの事柄というのは影響を与えます。
思い出を例に考えてみると嫌だったことのほうが詳細によく覚えていることのほうが多いでしょう。
そしてやった側はほとんど覚えていることはありません。
さらに聖書に書かれてもいない立場である開拓奉仕や補助開拓奉仕を行っています。
これらは自己満足でしかありません。
またエホバの証人内だけの「対外的に良く見える」から行っているに過ぎないと思っています。
なぜなら、ともに伝道に出ても効果的に家の人に伝えられている人をほとんど見たことがないからです。
わたしはこれらの奉仕を捉えなくとも伝えたいことがあるならば自ずと時間が入るとも考えています。
わたしが感じているのは、
・ほとんどのエホバの証人は、
・エホバの証人内でしか通じない言葉を
・エホバの証人同士がわかればいいとしか考えていない
と思っています。
つまり家から家に伝道をしておきながら、家の人を置き去りにして自分の言いたいことしか言わない壊れたレコードプレーヤーでしかないと感じています。
家の人の必要を考え、家の人の抱える問題の解決になる切っ掛けになるような伝道を行っている人はごくごく少数です。
家の人が問題に直面したときに、引き出しの一つとして有用な知識を伝え、それがきっかけでエホバの証人になってほしいと考えるのが"伝道活動の本質"です。
家の人が問題に直面した際に役に立つ言葉は"家の人が理解し適応できる"ことしかありません。
しかし家の人の理解は置き去りにされています。
伝道活動でなされている多くはエホバの証人側のエゴイズムでしかないと感じているのです。
こちら出向くのに
・燃料代を出し
・多くの時間を割いている
のだから、
・家の人の理解なんて要らないし、
・ものみの塔や目覚めよ!!、パンフレット、出版物を渡すだけで良い
・それらの資料を渡せたならば勝手にそれらを用いてエホバが語ってくださる
という考え方なら、それはこちらの願望でしかありません。
説明もせずクリスチャン用語がたくさん使われた資料は通訳者の力量によって効果が大きく異なります。
多くを語らなくても良いとは思っています。
ただ
・どのような場面で役に立つのか
・なぜこのような資料が書かれたのか
・家の人が今の時勢によって苦痛を感じている事柄から視点を変えることで和らげる
などが目的のはずです。
このことはクリスチャンと関わりだし、そしてわたし自身が伝道に出始めた頃は気が付きませんでした。
ただ自分が苦しみ闇を抱えるようになった頃から変わっていきました。
自分に必要なことを聖書から取り入れることができるようになっていったのです。
そして家の人の心に効果的に伝えるような方法を考えるようになりました。
実用的で実生活に役立つ方法は幾らでもたくさんあります。
しかし、伝わりそうもないと感じる集会で扱われるような方法でしか伝道をしていない人達を見ていると強い違和感しか感じません。
手段が目的化しているとは上手い事いうものだと思います。
家の人の必要を考えるよりも、仲間の信者の心の必要を満たすよりも、何よりも時間を入れることだけが正義だと考えるクリスチャンの多さに悲しくなります。
殆どの開拓者や補助開拓者は時間を入れることにしか関心がありません。
その時間を入れることこそが正義で家の人や仲間の信者が本当に必要としていることに、ひたすら無頓着です。
わたしは実際の伝道や証言というのは形が異なると思っています。
まだ続きますね