
実際の色のことではありません................
心の反映という意味での色のことを書こうと思います。
おいらはものが存在することにはなにかしらの意味があると考えています。
そしてそれが作られた本質を知る時にはじめて色がつくとも考えています。
よってただ単に目で認識している色は本当の色だとおいらは思わないのです。
目で見るだけだったらいくらでもきれいに出来ますよね。
おいらは鬱病です。
それゆえに世界のほとんどはすべて灰色で覆われているものばかりです。
以前は色を知っていたものでも、今では色を無くしているものがあります。
「本質を知りたくもないし、知れば知るだけつらいものだ」と考えていた(今もですが)のです。
色の無い世界では孤独しか感ず、虚しいことを繰り返す人々を見ていると悲しく感じます。
このブログを見ておられると
写真を良く撮っているのではないか?
とか
写真を撮ることによってたくさんの色に囲まれているのではないか?
と考えられるかもしれません。
しかし写真を撮っていても、そのものの本質を知らなければ意味が無いということを言いたいのです。
確かに写真を撮る時は「美しい」とか「すばらしい」と感じ、感性に動かされ撮影したのです。
でも、後で見返してみると本質をしらないものは感動が無く「なぜ撮ったのか?」とか「無意味なことをしたな~.....」と感じるのです。
本質を知っているものだったら話は全く違ってきます。
そのものを知っているがゆえに少ししか変化が無くても多くの色を持つのです。
見る人が写真から感じることは千差万別で見る人の人数に比例してそのものの色ができます。
加えて時間や日、月、年など時間を経ても違う色が見えてくるのです。
時に色を失い、そのものの本質を忘れることもあるでしょう。
おいらは今多くのものの色を失っている状態です。
よって忘れないように、また、覚えておきたいという願いを込めて写真という手段を用いているに過ぎないのです。
世界のほとんどのものに関しておいらは本質を知りません。
だからTVを見ていても、ドライブしていても、本を読んでいても「色」を知らず、存在している理由を知らないと言えるでしょう。
少し哲学的な書き方をしてしまいましたが、おいらは見ているものすべてに色をつけたいと願っています。
このように感じている限りおいらは写真を撮り続けるでしょう。
追記:変な言い回しをしているところがありましたので訂正致しました。
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