この頃自分でも恐いぐらいに上り調子です..................................
普通の人以上に物事が出来る事があったりするぐらいでして鬱の人の傾向を踏まえていますな。
所謂「躁状態」なのは間違いないと思います。
おいらの場合この躁状態が結構長く続きます。
スイッチの切り替えを自分では行えないので薬でする訳です。
良く集中力が高いと言われるのですが、おいらはこれが当たり前だと思っています。
何事も「興味のあること」、「好きなこと」だと感じるようにしていますが最も大きなPointがあるんですよね。
おいらは半端物のひねくれクリスチャンですが、教えられたことを適応するように努力はしています。
その一つに「何事も神に対するように行いなさい」というものがあります。
これは聖書で非とされていない事全般でこの原則を適応して物事に当たるようにして居るんですな。
加えて個人的なモットーとして責任があります。
「中途半端で投げ出してしまうぐらいならば最初から関わるな。関わるのであれば最後まで見届けてから」
と考えるんですよ。
おいらは20代後半までほとんど全てを中途半端で投げ出してきました。
確かに自分の手に負えるモノではないモノがほとんどですし、自分の出来る分を考えていなかったことも大きいと思っています。
よって最近は自分で出来る分の中から物事を行うようになってきました。
そしてその中から継続して行えることを見つけて物事を行うようになってきたんですな。
しかし人間というのは肉的傾向があります。
つまり終始心は悪に向かっていて調整されないのであればストレートに悪を行う傾向がある訳です。
おいらは弱い人間で罪を沢山犯してきました。
まあ聖書的な罪ですけどね。
法律では裁かれない罪を犯してきた訳です。
刑罰としては裁かれない例えば人のことを考えずに独善的に物事を行い他人の気持ちを考えずよかれと思って迷惑をかけるというような罪ですな。
これは軽い方ですが、人の合意の元でないと罪となることが多いんですよ。
このような質の罪というのは人間の見地では軽いのかも知れません。
でも人というのは軽い罪を軽視するとそれよりも少し程度の重い罪も軽視するようになり習わしにするようになります。
つまり結局は大きな罪へと繋がっていると言うことなんですよね。
雪だるま式に罪というのは大きくなっていきますし、命の重要性まで軽く見てしまうようになってしまう訳ですよ。
最終的に命よりも重要な「人間としての尊厳」も軽視してしまうようになりますし、これはもちろん神への冒涜になってしまうんですよね。
最近は悪い意味でか良い意味でか解りませんが、ある意味で吹っ切れたところがあって清々しい生活を送っています。
これは隣の市で建設が行われているのが大きいですな。
嫌がおうにも健全な思考の人たちが集まると健全な精神態度がみんなに行き渡りますし、おいらもその恩恵を得ることが出来るんですよ。
でもこのような出来事というのは一時的で来月で終わってしまうんですな。
解りきっているのですが、多分来月の半ばぐらいから精神状態が落ち込み気味になっていくことが予想されます。
今の精神態度をづっと継続して保つ方法を考えているのですが、難しいですな。
Mind Darkとは違うのですが、活動を広げることも考えていこうと思います。
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