物凄く嫌いな人が居ます.................................
かなり前からなのですが、嫌悪感があり生理的に受け付けない人が居ます。
心理的な作用として嫌いという感情は良い見方をしている事から来るというような意味を持つと言われています。
よって良い見方をしてしまうのが恐ろしくてたまらないぐらい嫌いなのです。
それが最近恐怖になってきていて冷や汗をかいてしまうぐらいになっています。
非常に自己中心的で
自分が話題の中心にいなければ気が済まず
自分の喋りたいことしか喋らない
こういう人間がおいらは大嫌いです。
最近の傾向としては
物凄く嫌悪している故に逆に注目して心の中で否定する
というようになってきてしまっています。
余りにも嫌いすぎて逆に目につくのです。
注目と言ってもChristianの集まりでは必ず発言をするために手を上げるProgramがあって、その中で発言をするんですよね。
此の女性がおいらは物凄く嫌いで嫌悪していて生理的に受け付けない所まで来ています。
視界に入って欲しくもない
同じ空間に居たくもない
というぐらいに嫌いな故に否定する為に此の女の状況を考え、此の女の環境、背景などを考えて否定することになっています。
これでは逆効果であるのは解っているのですが、考えて否定し続けていないと恐ろしくてたまらないんですよね。
心理的に好意を持っている子に嫌いと言ってしまう現象を「反動形成」を言います。
もしかしたらこのような現象の陥っているのではないか、自己欺瞞になっているのではないかと恐ろしいんですね。
「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉もあります。
よってこのような感情をもし抱くという事があったなら死んだ方がましだと考えて居るぐらい何です。
Christianの集まりに集っている他の人たちには悪いところはありますが、それを認識している人たちが多く直そうと努力している、もしくは指摘すると悪いと認める方たちなので此の集まりには集い続けたいと考えて居るのですが、此の女一人の為においらは恐怖を感じておののいている訳です。
考えたくもないし、見たくもない、まして夢にまで出てきて欲しくもない訳です。
それが今日は夢にまで出てきてしまいました。
冷や汗べっとりで起床しましたよ。
嫌いな要素はこれまで此の女が示してきた事をずっと観察してきましたのでね。
おいらは此の女とは分け合うまいと決めています。
嫌いすぎて逆に考え否定するようになっているんですよね。
それが最近は日々の生活でも起こってきました。
否定する為に考えてしまうと言う嫌~な現象が起こっています。
おいらは基本的に無視するという事をしない人間です。
しかし余りにも自己中心的すぎる人間には関わり合いを持ちたくないので無視するようになりました。
おいら自身に対しての制約として機能させねば気が済まないぐらい自己中心的なんですよ。
こんなに嫌悪感を感じたのはおいらを鬱に追い込んだ男以来ですね。
というよりあの頃から嫌いでした。
自分の言いたいことしか言わず、自分の解釈で聖書から助言をする
というような人間でしたからね。
よって今はあのような人間にはなりたくはないと反面教師として生活しています。
しかし現在進行形で此の女はおいらを彼女が意図せずにおいらを苦しめています。
考えすぎだとか、自意識過剰だと言われても仕方がないのですがね。
此の女は独身なんですよ。
おいらの親と同い年ぐらいなのですが、おいらのことを意識しておいらと目線を合わそうとしょっちゅう此方を見てきます。
これは自意識過剰ではないと思われます。
おいらは基本的に視界にも入らないようにして避けているのですから、目線を合わそうとすると此の女の側からおいらの視界に入るようにしなければ合いようもない訳ですからね。
おいらの行動というのは一貫させて徹底する性格ですからね。
此の女が意図しない限りおいらの視界にはまずは入らないはずなんですよ。
しかし嫌悪感を抱いている素振りは出さないようにしてきました。
これが駄目だったのかも知れませんな。
此の女をおいらが嫌いであることを示さなければ、理解して貰えないのかも知れません。
理解というのは相手に解るように示して初めて得られるモノだという事を最近知りました。
人間というのは言わなければ理解出来ないモノです。
今までは態度で示してきました。
しかし何かしらを伝える方法として態度や行動で示しても解らない人間の方が多いのだという事を推察すると此の女にも何かしら直接的に伝えた方が良いのかもしれません。
鈍感な人間というのは言われなければ解りません。
おいらは行動や態度で今までは伝えようとしてきました。
しかしそれでは世の中の8割以上の人間には伝わらないのでしょう。
8割というのは大凡のおいらの経験上での数字ですがね。
行動に示しては来ましたが、口に出して行ってこなかった理由があります。
おいらの良心の問題
ですな。
人を傷つけてはならない
と教わって生きてきました。
しかし平気で他人を傷つける人間に良心を持って行動していても此方が傷つくだけなのです。
これは非合理的、非論理的、非効率的な現象だと思われます。
また「反動形成」という心理的要因があるという事を理解してしまったが故に、否定し続けていないと逆の感情を抱いてしまうかも知れないという恐怖がおいらの思考の大きな部分を専有するようになってきています。
恐ろしくてたまらない状態で日々の生活にも支障が出てくるようになっていますね。
以前から此の女のことは嫌いだったのですが、より一層、考えれば考えるほど嫌い度が増していきます。
此の記事は我ながらもおいららしからぬ事を書き綴ってしまいましたが、こういう風に宣言しておかないと気が済まないぐらいまで来ているんですよね。
おいらは自分自身が正しいとは夢にも思いませんが、此の女を肯定することは絶対にしたくはありません。
他人の感情のことを全く考えない人間をおいらは認めることはしたくないのですから。
まだ書き足りないので更に酷い記事を書いてしまうかも知れませんが悪しからず。
鬱病がぶり返してきていてそうなるとこういう感情が支配的になっています。
これは本当に困るんですよね。
かなり前からなのですが、嫌悪感があり生理的に受け付けない人が居ます。
心理的な作用として嫌いという感情は良い見方をしている事から来るというような意味を持つと言われています。
よって良い見方をしてしまうのが恐ろしくてたまらないぐらい嫌いなのです。
それが最近恐怖になってきていて冷や汗をかいてしまうぐらいになっています。
非常に自己中心的で
自分が話題の中心にいなければ気が済まず
自分の喋りたいことしか喋らない
こういう人間がおいらは大嫌いです。
最近の傾向としては
物凄く嫌悪している故に逆に注目して心の中で否定する
というようになってきてしまっています。
余りにも嫌いすぎて逆に目につくのです。
注目と言ってもChristianの集まりでは必ず発言をするために手を上げるProgramがあって、その中で発言をするんですよね。
此の女性がおいらは物凄く嫌いで嫌悪していて生理的に受け付けない所まで来ています。
視界に入って欲しくもない
同じ空間に居たくもない
というぐらいに嫌いな故に否定する為に此の女の状況を考え、此の女の環境、背景などを考えて否定することになっています。
これでは逆効果であるのは解っているのですが、考えて否定し続けていないと恐ろしくてたまらないんですよね。
心理的に好意を持っている子に嫌いと言ってしまう現象を「反動形成」を言います。
もしかしたらこのような現象の陥っているのではないか、自己欺瞞になっているのではないかと恐ろしいんですね。
「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉もあります。
よってこのような感情をもし抱くという事があったなら死んだ方がましだと考えて居るぐらい何です。
Christianの集まりに集っている他の人たちには悪いところはありますが、それを認識している人たちが多く直そうと努力している、もしくは指摘すると悪いと認める方たちなので此の集まりには集い続けたいと考えて居るのですが、此の女一人の為においらは恐怖を感じておののいている訳です。
考えたくもないし、見たくもない、まして夢にまで出てきて欲しくもない訳です。
それが今日は夢にまで出てきてしまいました。
冷や汗べっとりで起床しましたよ。
嫌いな要素はこれまで此の女が示してきた事をずっと観察してきましたのでね。
おいらは此の女とは分け合うまいと決めています。
嫌いすぎて逆に考え否定するようになっているんですよね。
それが最近は日々の生活でも起こってきました。
否定する為に考えてしまうと言う嫌~な現象が起こっています。
おいらは基本的に無視するという事をしない人間です。
しかし余りにも自己中心的すぎる人間には関わり合いを持ちたくないので無視するようになりました。
おいら自身に対しての制約として機能させねば気が済まないぐらい自己中心的なんですよ。
こんなに嫌悪感を感じたのはおいらを鬱に追い込んだ男以来ですね。
というよりあの頃から嫌いでした。
自分の言いたいことしか言わず、自分の解釈で聖書から助言をする
というような人間でしたからね。
よって今はあのような人間にはなりたくはないと反面教師として生活しています。
しかし現在進行形で此の女はおいらを彼女が意図せずにおいらを苦しめています。
考えすぎだとか、自意識過剰だと言われても仕方がないのですがね。
此の女は独身なんですよ。
おいらの親と同い年ぐらいなのですが、おいらのことを意識しておいらと目線を合わそうとしょっちゅう此方を見てきます。
これは自意識過剰ではないと思われます。
おいらは基本的に視界にも入らないようにして避けているのですから、目線を合わそうとすると此の女の側からおいらの視界に入るようにしなければ合いようもない訳ですからね。
おいらの行動というのは一貫させて徹底する性格ですからね。
此の女が意図しない限りおいらの視界にはまずは入らないはずなんですよ。
しかし嫌悪感を抱いている素振りは出さないようにしてきました。
これが駄目だったのかも知れませんな。
此の女をおいらが嫌いであることを示さなければ、理解して貰えないのかも知れません。
理解というのは相手に解るように示して初めて得られるモノだという事を最近知りました。
人間というのは言わなければ理解出来ないモノです。
今までは態度で示してきました。
しかし何かしらを伝える方法として態度や行動で示しても解らない人間の方が多いのだという事を推察すると此の女にも何かしら直接的に伝えた方が良いのかもしれません。
鈍感な人間というのは言われなければ解りません。
おいらは行動や態度で今までは伝えようとしてきました。
しかしそれでは世の中の8割以上の人間には伝わらないのでしょう。
8割というのは大凡のおいらの経験上での数字ですがね。
行動に示しては来ましたが、口に出して行ってこなかった理由があります。
おいらの良心の問題
ですな。
人を傷つけてはならない
と教わって生きてきました。
しかし平気で他人を傷つける人間に良心を持って行動していても此方が傷つくだけなのです。
これは非合理的、非論理的、非効率的な現象だと思われます。
また「反動形成」という心理的要因があるという事を理解してしまったが故に、否定し続けていないと逆の感情を抱いてしまうかも知れないという恐怖がおいらの思考の大きな部分を専有するようになってきています。
恐ろしくてたまらない状態で日々の生活にも支障が出てくるようになっていますね。
以前から此の女のことは嫌いだったのですが、より一層、考えれば考えるほど嫌い度が増していきます。
此の記事は我ながらもおいららしからぬ事を書き綴ってしまいましたが、こういう風に宣言しておかないと気が済まないぐらいまで来ているんですよね。
おいらは自分自身が正しいとは夢にも思いませんが、此の女を肯定することは絶対にしたくはありません。
他人の感情のことを全く考えない人間をおいらは認めることはしたくないのですから。
まだ書き足りないので更に酷い記事を書いてしまうかも知れませんが悪しからず。
鬱病がぶり返してきていてそうなるとこういう感情が支配的になっています。
これは本当に困るんですよね。