おいらはかなりの粘着タイプです..............................
どういう事かというと何かを行う際に納得するまで行わなければ気が済みません。
これは勉強にも良く当てはまるのですが、勉強というのは一つのことを勉強し続ける「=留まる」ということは非効率的なことでしょう。
しかしおいらはこの非効率的な方法で物事を行おうとしてきました。
んでおいらの勉強の仕方を知った方に言われたことがあります。
物事というのは流れ(Force)があるのだからその流れに沿った物事の見方をするように諭されました。
確かにこのことはおいらの勉強方法では限界があり、ある程度を知るようになれば次の物事を行うべきなのだと身をもって理解できるようにはなってきました。
昨今の学び方ではどうしても限界が出てきてしまうのです。
今の行い方は参照する言葉を調べ、さらにその参照した言葉のもっとよく知りたい言葉を調べます。
ここまでならばまだマシなのですが、もっとよく知りたい言葉の欄外参照を調べ、その言葉の気になる言葉も調べるという雪だるま式に資料の研究が多くなっていく事がよく起こります。
そしてその資料をみんなで検討し終わった後にも更に家で調べていくと言うことになっています。
こうなると新しい資料の研究が出来ないのですから、早急に改めなければならない事は明白なんですな。
更においらは資料に没頭して集中して読むタイプですので頭の中ではおいらの中では限界近い処理を行います。
本というのは睡眠に誘う作用がある事はよく知られています。
しかしおいらの場合は資料次第では逆に目が冴えて寝付けない事態になってしまうんですな。
ここ最近はそういうことが多くて困っています。
だからシンプルで明解な種類の本でないとNGなんですな。
学ぶことにも時があり、学ばないときにも時があります。
時間を作ることは大切ですが、そのことに時間を割きすぎることも問題なのだと感じています。
どういう事かというと何かを行う際に納得するまで行わなければ気が済みません。
これは勉強にも良く当てはまるのですが、勉強というのは一つのことを勉強し続ける「=留まる」ということは非効率的なことでしょう。
しかしおいらはこの非効率的な方法で物事を行おうとしてきました。
んでおいらの勉強の仕方を知った方に言われたことがあります。
物事というのは流れ(Force)があるのだからその流れに沿った物事の見方をするように諭されました。
確かにこのことはおいらの勉強方法では限界があり、ある程度を知るようになれば次の物事を行うべきなのだと身をもって理解できるようにはなってきました。
昨今の学び方ではどうしても限界が出てきてしまうのです。
今の行い方は参照する言葉を調べ、さらにその参照した言葉のもっとよく知りたい言葉を調べます。
ここまでならばまだマシなのですが、もっとよく知りたい言葉の欄外参照を調べ、その言葉の気になる言葉も調べるという雪だるま式に資料の研究が多くなっていく事がよく起こります。
そしてその資料をみんなで検討し終わった後にも更に家で調べていくと言うことになっています。
こうなると新しい資料の研究が出来ないのですから、早急に改めなければならない事は明白なんですな。
更においらは資料に没頭して集中して読むタイプですので頭の中ではおいらの中では限界近い処理を行います。
本というのは睡眠に誘う作用がある事はよく知られています。
しかしおいらの場合は資料次第では逆に目が冴えて寝付けない事態になってしまうんですな。
ここ最近はそういうことが多くて困っています。
だからシンプルで明解な種類の本でないとNGなんですな。
学ぶことにも時があり、学ばないときにも時があります。
時間を作ることは大切ですが、そのことに時間を割きすぎることも問題なのだと感じています。
人間というのは弱い生き物ですね。
学びたいと願っていても時間に制限があり、限界がある。
もっと沢山学びたくてもある程度で止めておかなければ逆に悪く作用するようにもなってしまいます。
たとえ霊的なことでも一人で学ぶことで自分を孤立させることは悪とされていますからね。
人との関わりの中で相互に励まし合う必要があり、会話の中で話すことにより再考し、復習し、新たな見解を知ることが出来る..........というかこのような方法で得ていくべきであるというのが聖書の見方ですからね。
chomemaroさんのは絶対に素晴らしい黙想です。
それはBlogの記事を読ませていただいていますので考え深い方だと言うことを知っていますからね。
言い切れるんですよ。