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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



少し趣旨がずれますが「勉強をするべき理由」について書こうと思います.................................

特に学生は勉強をするのは当然のことです。
これを踏まえて書こうと思いますね。
なぜ「文具の魅力」の1記事として書くのかは当然として勉強をするに当たってはStationeryを使用するのが必然だからなんですよね。
Computerで勉強というのは非効率的な学び方になります。
これは動作に役割がないからだとおいらは勝手に考えています。
Keyboardの操作というのは字を書くのと比較して学習効率が非常に悪いのは解りきっていることでしょう。
個別の文字並びに文章を書くのとKeyboardの操作の比較というのはよっぽどKeyboardに依存していてほぼ完全に把握している場合を除いては実際に字に書いて学ぶ方が断然覚えやすいというのは明白でしょう。

................こんな事を書く為ではないんですよね。
勉強をする「動機」なり「理由」、「責任」等を書こうと考えていたんですよ。
おいらは別に勉強をしたくない子と一緒に学びたいとは思っていません。
加えて無償で行っているのですから、嫌々の子のために行く意味はないと言えるでしょう。
行動するに当たっては当然ながら車の燃料代なり、エンジンオイルの劣化によりオイル交換の時期を早めること、その他の車の維持費等が掛かってきます。
そればかりかおいら自身の時間的拘束も起こり、時間を拘束されるということはおいらの時間的資産を無駄にしていることになる訳です。

「勉強はしなければならない」

ということは学生に限っては余りに当たり前のことで言うまでもないことです。
「学生の本分」として耳タコで言われることですからね。

「学生の本分は勉強することである」

ってよく言われていたな~................
ある程度の責任感があるのであれば自主的に勉強をしようと思うはずです。
おいらならばわざわざ勉強を見に来てくれる人は居ませんでした。
もし親切にも来てくださるのであったならば勉強への姿勢はもっと高くなり学ぼうという意識が高くなっているはずです。
それに嫌々だという態度を来て下さる方に表明するようなことは、おいらの場合は心で思っていたとしても絶対に表には出さなかったはずです。
確かにおいらは生きて行くには「学校の勉強の必要性」というのは無いと考えてきました。
そしてそれをこの子に言ったことも少なからずあります。
でもそれは十分に勉強している子に限ったことで勉強していない子に関しては当てはまりません。

以前にも書きましたが、おいらの勉強の定義を再度書いておきます。
勉強というのは

必要な時にその情報が何処にあるのかを把握しておくこと

だとおいらは考えています。
度々使うならこれは適応外で身近で手に取りやすい場所に置くことになるでしょうけどね。
ほとんど使用することのない情報というのは何処にあるのかを知ってさえおけば探し出して使用することが可能なのです。
しかしおいらの言う「勉強」では知らない場合には情報を取り出すことが出来ないと言うことになります。
そもそもです。
情報を知ってさえおけば得をすることや損をすることって結構多いという事実がありますからね。

では「動機」に関して書いていきましょうかね。
おいらは性格がしつこくて、粘着質であり、しぶといんですよ。
人によっては「粘り強い」という言い表現方法をされることがありますけどね。
ほとんどの人は「くどい」と考えているはずです。
またおいらの言葉の意味というのは全てを伝えようとするには一々説明をしなければ伝わりません。
おいらが物事を伝える際や言葉とする際には簡潔に伝えるようにしています。
簡潔に伝える為には何が必要かは書くまでもないことなのですが、一応書いておきましょうかね。
言葉を短くすると言うのは長く綴ることよりも非常に難しい作業なのは間違いありません。
「言葉を選ぶ」という作業でも簡単な「選択」ではなく適切な表現方法をする為には「厳選」しなければならないんですな。
適切な表現をする為には「物事の把握」というのは絶対に外せない要素となりますし、必須となります。
つまり言葉を短くする為には言葉を短くする為の「努力」というのが前提としてある訳ですよ。
おいらは物事を伝える為には最善を尽くさなければならないと肝に銘じています。
これは聖書を学んでいる事が非常に大きな影響を与えていますな。
幾つか聖書の言葉を書き出そうと思います。
まず物事を行うに当たっての聖句です。

「何をしていても、人にではなく神に対するように魂をこめてそれに携わりなさい」コロサイ 2:3

これは何事に対しても当てはまります。
その中の一つのとしての勉強がある訳です。
次いで「理由」を書いていこうと思います。
紹介する聖句は具体的には書かれていないのですが、原則として考えるにあたって適応できると考えているモノです。


「しかし,物質の人は神の霊の事柄を受け入れません。
 それはその人には愚かなことだからです。
 また彼は[それを]知ることができません。
 それは霊的に調べるべき事柄だからです。
  一方,霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません。
 「だれが神の思いを知って,彼を教え諭すようになったであろうか」とあるのです。
 それでもわたしたちは,キリストの思いを持っているのです。」

「しかし人は,自分が信仰を持っていない者をどうして呼び求めるでしょうか。
 また,自分が聞いたこともない者にどうして信仰を持つでしょうか。
 また,宣べ伝える者がいなければ,どうして聞くでしょうか。
 また,遣わされたのでなければ,どうして宣べ伝えるでしょうか。
 「良い事柄についての良いたよりを宣明する者の足は何と麗しいのだろう」と書かれているとおりです。」

とこんな感じの聖句ですな。
おいらの中での原則としてですのでかなり掛け離れている時点となってしまうでしょうから説明しますね。
まず上の括弧の説明をします。
物事を知ろうと努力しないことは「愚かなこと」つまり罪に当たる訳ですよ。
しかもそれが出来るのに差し控えている人や面倒くさがる人というのは受けるに値する人からも差し控えるという結果になります。
つまり物事を知る努力を怠った結果から起こる損益から差し控えるという結果に繋がると言うことなんですな。
おいらの中ではこれは罪の部類に入ります。

下の括弧は物事を知る経緯、そして知ったことから自分を知識の面で養い、物事を知った結果から起こる「行動」ですな。
そして次に「責任」としての重要な聖句に繋がります。

「当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,
 その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです。」

つまり自分が学ばなかったことで損失を被り家族が学ばなかった知識から得れるものを得損なったことは「愚か」では済まない部類のモノになってしまうと言うことになります。
確かなこととして人間というのは行動に限界がありますし、時間的にも体力的、精神的、金銭的な拘束がありますし、出来ることは限られていますのである程度までしか仕方がない部分があります。
それは考慮に入れられるべき事柄ですし、出来ないことがあっても理解されるでしょう。
でもSabotageや出来るのに差し控えるのはおいらの見地では許せないと思えてしまうんですよね。
可能な範囲で「努力」が見られるのであればおいらはその人を評価しますし、認めます。
でも努力もせずにただ「楽をしたい」とか、「しんどいことは嫌だ」という態度というのはおいら的には「関わりたくはない」部類の人種になってしまいます。
これは自分の分を果たさないと言うことを示していますし、自分に出来る中での最善を尽くしていないということだからですな。

今までおいらなりに忍耐強く接してきたつもりなのですが、昨日の態度を見て「やっぱり変わらないんだな~」と感じてしまいました。
思えば昨年の夏休みから一緒に学校の勉強を共に学ぼうと通い続けているんですけどね。
おいらは見続けることによって判断しなければならないとこのBlogで常々書いてきました。
そしてこの子はおいらが接する中でもかなり接している子なんですよね。
見続けることで心理学で言う「単純接触効果」によっておいらの性格というのが解っているはずですし、何をするかも目的をハッキリ伝えてから伺うことにしていますので負担の軽減をしているはずです。
加えてこちら側としてもこの子の事を単純接触効果によって良く知り観察していますので人間性を見ることが出来てきました。
多分ですが、この子の家族の次ぐらいに彼の性格を把握しているはずなんですな。
これ以上は彼にも負担になるでしょうし、嫌々であれば頭に入っていくべくもなくむしろ嫌悪感を感じるはずです。
これはおいらの経験上で勉強を強いられた際に起こっていた現象ですし、彼の学校での環境を考慮すると彼自身が一番解っていることなのでしょう。

よってこれからは勉強のことに関しては彼から言い出さない限りはこちらから持ち出さないようにしていきます。

ここで最後に書いておくこととしては、あるほんの脚注に書かれていた経験ですな。
まんま書くと意味がわからないかも知れないのでおいらが少し改変して書き出そうと思います。

「同じ年代の若者を見て分かったのは、学校にいた時の勉強の習慣がそのまま、
 社会人になって学ぶ面での習慣になるということです。
 学校の勉強が好きになれなかった人は、仕事などの社会人として学習するべき事に興味を示しませんでした」

つまり学生時代に培った学習意欲、集中力、Motivation、そして学ぶことを楽しもうとする姿勢は一生のLife-styleに刻み込まれ習慣となると言うことなんですよ。
是非学校での勉強を楽しく行っていただきたいモノですな。

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コメント
 
 
 
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2008-10-21 13:45:23
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