緻密で繊細な事を理解し、その作業をすることが好きだ.........................
わたしは全ての事に意義を見出したい方です。
わたしが行う一つ一つの事柄に意義を見出しながら、価値を見出しながら生きていきたいと願っています。
わたしの回りにいる人と根本的に違う点は、どのようなことでも
「全てに意義がある」
という価値観を認めて貰えなかった所でしょうか。
・ほとんどの人間はただ周りの環境に流され、それに甘んじて生きている
わたしにとってはこのように言われた時に「それに逆らうのは愚かなことだ」と反論されたようなものです。
一つ一つの事柄に「意味を、そして意義を、さらに価値を」見出したいと願いながら生きていました。
今でもそのようなところがあります。
何かしらを作り出したいという願いはわたしの中の内なる「炎(Intense flame)」として在り続けています。
内側からわたしの体を焼き、皮膚の皮一枚隔てた内部は燃え盛っている状態で
ちょっとした瞬間に漏れ出すのでは無いか
と感じることが有るほどです。
特に文具店に居ると色々と考えてえしまって、あれもこれもとほしい物がたくさんあります。
更に書くならば、
小価値なモノに付加価値を添付する
ことが大好きなんですよね。
無から有を生み出すことが出来るのは人間にとって素晴らしい能力です。
わたしは何かしらのクリエイターになりたかったんですね。
建築家、設計士、パティシエ、服飾やアクセサリー、グラフィックデザインなど専門職に就きたいと願っていました。
緻密で繊細なことが好きなのには理由があります。
まず、測量や製図を学校で学んだことが大きいのでしょう。
そしてアルバイトのような仕事の形態は嫌いでした。
語弊があるかもしれませんが、
「取り敢えず金が入ればいい」
という価値観をわたしは持ち合わせていなかったのです。
ここがわたしの愚かなところなのですが、貧乏でもその日一日を食えていければ遣りたい仕事を納得しながら出来ればよかったのです。
苦しいこともあるでしょうし、辛いことも有るでしょう。
自分が遣りたい事なのですから、当然です。
それを頭から否定し、クリスチャンとして沢山の時間を伝道活動に費やし、わたしからすれば労力に見合った賃金も貰えないようなアルバイトをしていれば良いと言われていました。
わたしは深く物事を考える性格ですし、緻密で繊細な仕事も好きですが、緻密で繊細な計算や構想力も多少は持ち合わせています。
余りにもかけ離れた「仕事」、余りにもかけ離れた「納得感(=人は満足感というのでしょう)」に心は絶叫し、絶望的な悲鳴を上げ続けていました。
「人間というのは一生苦行をしながら生きていかなければならないのだ」
と暗に言われているようでした。
そして
「一生満足なんて得られるわけがない」
と馬鹿にされているようでした。
というより、わたしの価値観を理解できない人間の論理は根本的に「基礎から」違うというのも事実でした。
普通の人の仕事への考え方は
基礎を学び
それをマスターする
それに熟達する
そして基礎を一人前にこなせるようになる
までが仕事であり、それ以上でも以下でもない
というものです。
わたしの考え方は
基礎を学び
それをマスターする
それに熟達する
そしてそれを一人前にこなせるようになる
ここから下は繰り返しになります。
更にその技術を応用して仕事の幅を膨らませる
新しい技術を取り込む
それを仕事に生かせるまで修練する
仕事に反映させ、より完成度の高いモノ、クオリティの高いモノを提供する
仕事というのは基礎ができて当たり前ですし、一人前の仕事というのはそつなくこなせるようになる事だと思われている人が多くて困ります。
一人前の仕事というのは、一人の人間がやっと食っていける仕事量です。
わたしは一人前の仕事では満足できません。
一つ一つの仕事のクオリティを上げれば、仕事をランクアップさせることが出来ると信じて疑いません。
以前に一流と「超一流」の違いを書いた覚えがあります。
これはわたしの中では間違ってはいないと確信していますし、そうなりたいと学生時代から願っていました。
なぜ自分の遣りたい事をしてはならないのか
まだしも...........
遣りたい事ではなくても、なぜ仕事の遣り甲斐を感じてはならないのか
わたしに助言をしていた人は言いました。
「仕事は所詮仕事なんだし、世俗の仕事に遣り甲斐を求めても意味が無い」と。
そして私自身の家族の仕事へのStanceも、仕事は所詮は”お金”の為で
父上の場合は「家族を養うため」
母上の場合は「日々生活をするため」
兄妹たちの場合は「自分の生活のため」
というものです。
多少は変化がありましたが、それでもわたしのように感じることは無いのでしょう。
と言うかStoicに仕事に向き合うほうが馬鹿なんだよと言われているような気がします。
確かにお金の為だけならば、Stoicに仕事をすることは馬鹿のすることに見えるでしょうね。
わたしもそう思います。
わたしは毎日、全ての事に意義を見出したいと願って生きています。
スキルを磨くことは、単調で面白くないことであっても成長を感じるとわたしは意義を見出せます。
たとえ成長を実感出来ないような壁を感じても、成長をしているのは確かであることを身を持って知っています。
よって壁のように感じていてもBreak Throughが必ず起こり、技術変革することは明らかであるのも知っています。
意義を見出そうとしていないのは勿体無いことだと思うんですよね。
毎日がこれほど愛おしく、美しいモノであるのに自分の目の前で起こっていることに「意味が無い」「無味乾燥」なモノにしか見えていない人は本当に損をしています。
今現在であっても「自分の手の業を喜ぶべき」なのです。
自分には価値がある、たとえ「今」成すべき事が無くとも、自分が目指しているモノがあるならば少なからず価値があるというのは紛うことなき事実です。
欲しいモノ、成りたい立場、遣りたい仕事、身に付けたいスキルがあるならば、現状では仕方がなくとも心に秘めた熱き思いを今遣っていることに昇華させて遣るべきだと全力を尽くしてやっていました。
ただ、「価値観の違い」を押し付けられて、
「仕事に意義を見出してはならない」
と洗脳されて心身ともに過激に消耗していき、わたしは燃え尽きてしまいました。
そこから少しずつ燃料をいちから摘んで拾い集めていく必要があります。
砂の一欠片を集める気力も無くなってしまい、燃え尽き白くなった燃え滓のような状態だったんですよね。
自分を全否定し、自分を呪い、自分を蔑み、自分を辱め、自分を苦しめ傷めつける
ことしかしてはならないのだという思考になっていきました。
これは暫く続き、本当に苦しい日々を送っていました。
ただ学生時代に理想としていた形が、今でも現実的で間違っては居なかったのだということを確信できているのは本当に救いとなっています。
わたしの理想はRealityのあるものでした。
「現実と理想は違う」と人々は言います。
それは理想を高く掲げすぎているからでしょう。
わたしの理想は遣りたい仕事を生活出来るだけの金銭を貰えれば満足出来るものだったのです。
そしてそれはわたしの遣りたい仕事でも技術を身につければ実現可能なモノでした。
身に付ける術を知っていましたし、それを身に付ける学費は仕事をすればいずれは償却出来るものであるのは間違いありませんでした。
そんなことは明白なのに自尊心が無く、自信もなかった自分が「他の人が全面的に正しい」と考えていた故に燃え尽きてしまったんですね。
こうして書くと気持ちの整理が出来て、本当に少しですがスッキリ出来ました。
起承転結が確り出来ていませんが、これぐらいにしておきます。
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