自分の中から湧いてくる表現を抑えきれなくなってきました................................
多くのことを考え生きているおいらとしては、全く考えずに生きている人間が何故生きていけるのかに疑問を感じる昨今です。
「人は考える葦である」
とあり、おいらはその中でもよく考える方のようです。
多くのことを考えている余りに何も考えずに行動している人に振り回されるということが苦痛でならないんですよね。
確かに考えるよりも動くことの益というのは良く解っていますし、羨望の眼差しで羨んでもいます。
でもあのようにはなれないとも思いますね。
彼らのように行動したいと願っても
おいらはよく考えてからしかActionを起こそうとはしないでしょう。
これはおいらの行動基準からも明らかです。
対人関係を壊したくないとかいう考えは全くありません。
おいらは対人関係をなんとも思っていないところがあります。
ところがおいらの家族というのは非常にお人よしのところがありますし、おいらの家族であれば言いたいことを言っても大丈夫だと思っている人間が相当数おります。
というよりおいらの家族というのは何でもニコニコしながら受け流すように育てられています。
それで遠まわしに皮肉なんかも言われることがよくあります。
おいらの場合に先日のことですが、
One Tempo反応が遅くなっているのではないか
と妹君たちに指摘された所でなぜ遅れるのかは、言葉を吟味しすぎるからに他ならないということも言われました。
これは非常に的を射た言葉でおいら自身もResponseよく的確に返事を出来るようになりたいと願いながら出来ていないのは間違いないでしょう。
常々、強烈に実感していたことを他の人に言われるというのは余程のことなのだろうと思われます。
丁寧に対応しすぎるというのがおいらの良い所でもあり、悪い所でもあるということですね。
語彙を増やす必要性もありますし、反応の速さも培っていかねばならないというのもあります。
お笑い芸人達のように反応を早くしたいと思うぐらいです。
おいらは人嫌いなところがありますが、こういった反応を早めるには会話をしていかねばならないというのは間違いないでしょう。
会話の場を増やし率先して会話に加わっていく必要性を感じますね。
いろいろな人間を見てきましたが、Responseよく会話をしている人間のほうが受けがいいというのも間違いないでしょう。
「言葉を吟味する」というのはいいことでもありますが、反応がOne Tempo遅いというのは非常に悪いことであるのは間違いないのです。
この点でも何も考えずに行動する(発言する)方がいい結果を生むということがわかります。
聖書の言葉に「塩で味付けされた言葉を発する」べきであると書かれており、最善を尽くして従おうとしてきました。
しかし塩で味付けするには下拵えがどうしても必要で反応が遅くなるというのは仕方が無いことでした。
おいらは聖書教育を受けて育ち、厳密に適応するように自ずとなって行きました。
途中から厳密になっていったのですが、親や他のChristianの影響でそうなって行きました。
そして途中から自分自身にこういう事を課せるようになりました。
他の人間が課したものであれば、簡単に取り除くことが可能なのかもしれませんが、自分自身が課せるものというのは根強く残りいざ取り除こうとしても難しいことが少なくありません。
このようなことがおいらは多数あり、自分で自分の首を絞めている習慣や思考が他の人よりも多すぎるというのも解るようになりました。
これは何とかしなければならないな~と思いますね。
しかもそれぞれが厳密で強力な拘束力を持っているのモノなので相互の協力しあってより質の悪い習慣や思考になっているモノもあります。
これはダメですね。
気を付けなければならないですな。
思考を構築するためには多くのDataをBaseとして保有し、把握し理解していなければなりません。
そしてそれを活かすためには処理能力を上げるために常に思考や意識をこういったことに割き続ける必要があるでしょう。
おいらは不器用なので一度に一つのことしかできないところがあります。
でもそうも言っていられない所もあるんですよね。
人間というのは一度に一つのことしか出来ないようにできているのですが、女性はこの点で多くの処理能力を保有しています。
傾向としては男性はSingleTaskで、女性はMulti Taskという役割Modelがこの世の中では常識となっていますよね。
でも別においらは不器用で構わないと思っているところもあります。
一つのことを研鑽し技術を向上させていきたい性格だからなんですよね。
丁寧すぎることに関しては妹たちの意見を聴くとさらに面白い言葉が出てきました。
そのことは次に書こうと思います。
おいらは常に
「美的感覚を大事にしていきたい」
と考え生きるようになって来ました。
つまり物事というのは常にSenseを試され流れているということですな。
Senseを活かすためにはそれを研鑽していかねばなりません。
Sense(美的感覚)というのは生まれ持っていることは殆どありませんが、育った環境は非常に大きく影響し、非常に大きな格差が生まれます。
育った環境でSenseの良さが左右されると言っても過言ではないでしょう。
しかし劣悪な環境で育ち、Senseが全くない人間でも「後天的」、つまり「努力」によって手に入れることは可能なんですよね。
劣悪な環境で育つということは
「悪いSenseを身に付けている」
という意味でもあります。
よってその「悪いSense=習慣」を矯正してやらねばなりません。
おいらは今でも悪いSenseを矯正しきれていません。
矯正しきれていない人間としてこういったことを書くというのは非常に矛盾を孕んでいるのですが、こうなりたいと願わなければ人間は変われません。
人間はなりたいと思い続けている人間になれるように出来ています。
目標を持つということが如何に大事な事なのかを表しているでしょう。
ところで
「矯正できる」or 「矯正できない」は何に依存しているのでしょうか
それは
自分が悪い部分を自分自身が認知し悪いので矯正しなければならない
という意識を持つということをです。
そして悪い部分というのは殆どの場合に自分自身が気づくことは非常に難しいのです。
つまり悪いと指摘してくれる手段が必要なわけです。
これは自分自身が取り入れる事柄であったり、他の人が指摘していただける機会がある場合に限る訳ですな。
よって学び続ける姿勢であったり、謙遜であったりする必要性があるんですね。
また更にこういったことを可能にするには「人格」というのが非常に重要になります。
人格というのは「人間性」とも言われますし、その人の本質によって
人が指摘しやすいかどうか
で決定されることが少なくありません。
人間性が悪い場合には指摘してくださるような人が周りには居ないでしょうし、指摘されても謙遜にそれを受け入れることは難しいでしょう。
周りの人間からしても気がついていても指摘をしようとも思わないでしょうしね。
多くのことを考え生きているおいらとしては、全く考えずに生きている人間が何故生きていけるのかに疑問を感じる昨今です。
「人は考える葦である」
とあり、おいらはその中でもよく考える方のようです。
多くのことを考えている余りに何も考えずに行動している人に振り回されるということが苦痛でならないんですよね。
確かに考えるよりも動くことの益というのは良く解っていますし、羨望の眼差しで羨んでもいます。
でもあのようにはなれないとも思いますね。
彼らのように行動したいと願っても
おいらはよく考えてからしかActionを起こそうとはしないでしょう。
これはおいらの行動基準からも明らかです。
対人関係を壊したくないとかいう考えは全くありません。
おいらは対人関係をなんとも思っていないところがあります。
ところがおいらの家族というのは非常にお人よしのところがありますし、おいらの家族であれば言いたいことを言っても大丈夫だと思っている人間が相当数おります。
というよりおいらの家族というのは何でもニコニコしながら受け流すように育てられています。
それで遠まわしに皮肉なんかも言われることがよくあります。
おいらの場合に先日のことですが、
One Tempo反応が遅くなっているのではないか
と妹君たちに指摘された所でなぜ遅れるのかは、言葉を吟味しすぎるからに他ならないということも言われました。
これは非常に的を射た言葉でおいら自身もResponseよく的確に返事を出来るようになりたいと願いながら出来ていないのは間違いないでしょう。
常々、強烈に実感していたことを他の人に言われるというのは余程のことなのだろうと思われます。
丁寧に対応しすぎるというのがおいらの良い所でもあり、悪い所でもあるということですね。
語彙を増やす必要性もありますし、反応の速さも培っていかねばならないというのもあります。
お笑い芸人達のように反応を早くしたいと思うぐらいです。
おいらは人嫌いなところがありますが、こういった反応を早めるには会話をしていかねばならないというのは間違いないでしょう。
会話の場を増やし率先して会話に加わっていく必要性を感じますね。
いろいろな人間を見てきましたが、Responseよく会話をしている人間のほうが受けがいいというのも間違いないでしょう。
「言葉を吟味する」というのはいいことでもありますが、反応がOne Tempo遅いというのは非常に悪いことであるのは間違いないのです。
この点でも何も考えずに行動する(発言する)方がいい結果を生むということがわかります。
聖書の言葉に「塩で味付けされた言葉を発する」べきであると書かれており、最善を尽くして従おうとしてきました。
しかし塩で味付けするには下拵えがどうしても必要で反応が遅くなるというのは仕方が無いことでした。
おいらは聖書教育を受けて育ち、厳密に適応するように自ずとなって行きました。
途中から厳密になっていったのですが、親や他のChristianの影響でそうなって行きました。
そして途中から自分自身にこういう事を課せるようになりました。
他の人間が課したものであれば、簡単に取り除くことが可能なのかもしれませんが、自分自身が課せるものというのは根強く残りいざ取り除こうとしても難しいことが少なくありません。
このようなことがおいらは多数あり、自分で自分の首を絞めている習慣や思考が他の人よりも多すぎるというのも解るようになりました。
これは何とかしなければならないな~と思いますね。
しかもそれぞれが厳密で強力な拘束力を持っているのモノなので相互の協力しあってより質の悪い習慣や思考になっているモノもあります。
これはダメですね。
気を付けなければならないですな。
思考を構築するためには多くのDataをBaseとして保有し、把握し理解していなければなりません。
そしてそれを活かすためには処理能力を上げるために常に思考や意識をこういったことに割き続ける必要があるでしょう。
おいらは不器用なので一度に一つのことしかできないところがあります。
でもそうも言っていられない所もあるんですよね。
人間というのは一度に一つのことしか出来ないようにできているのですが、女性はこの点で多くの処理能力を保有しています。
傾向としては男性はSingleTaskで、女性はMulti Taskという役割Modelがこの世の中では常識となっていますよね。
でも別においらは不器用で構わないと思っているところもあります。
一つのことを研鑽し技術を向上させていきたい性格だからなんですよね。
丁寧すぎることに関しては妹たちの意見を聴くとさらに面白い言葉が出てきました。
そのことは次に書こうと思います。
おいらは常に
「美的感覚を大事にしていきたい」
と考え生きるようになって来ました。
つまり物事というのは常にSenseを試され流れているということですな。
Senseを活かすためにはそれを研鑽していかねばなりません。
Sense(美的感覚)というのは生まれ持っていることは殆どありませんが、育った環境は非常に大きく影響し、非常に大きな格差が生まれます。
育った環境でSenseの良さが左右されると言っても過言ではないでしょう。
しかし劣悪な環境で育ち、Senseが全くない人間でも「後天的」、つまり「努力」によって手に入れることは可能なんですよね。
劣悪な環境で育つということは
「悪いSenseを身に付けている」
という意味でもあります。
よってその「悪いSense=習慣」を矯正してやらねばなりません。
おいらは今でも悪いSenseを矯正しきれていません。
矯正しきれていない人間としてこういったことを書くというのは非常に矛盾を孕んでいるのですが、こうなりたいと願わなければ人間は変われません。
人間はなりたいと思い続けている人間になれるように出来ています。
目標を持つということが如何に大事な事なのかを表しているでしょう。
ところで
「矯正できる」or 「矯正できない」は何に依存しているのでしょうか
それは
自分が悪い部分を自分自身が認知し悪いので矯正しなければならない
という意識を持つということをです。
そして悪い部分というのは殆どの場合に自分自身が気づくことは非常に難しいのです。
つまり悪いと指摘してくれる手段が必要なわけです。
これは自分自身が取り入れる事柄であったり、他の人が指摘していただける機会がある場合に限る訳ですな。
よって学び続ける姿勢であったり、謙遜であったりする必要性があるんですね。
また更にこういったことを可能にするには「人格」というのが非常に重要になります。
人格というのは「人間性」とも言われますし、その人の本質によって
人が指摘しやすいかどうか
で決定されることが少なくありません。
人間性が悪い場合には指摘してくださるような人が周りには居ないでしょうし、指摘されても謙遜にそれを受け入れることは難しいでしょう。
周りの人間からしても気がついていても指摘をしようとも思わないでしょうしね。