よどみ、汚れ、濁った目で見つめ続ける.............
余りにも美しいモノを見ていると見窄らしい自分の姿を情けなく思います。
こんな自分が存在している自体が罪なのだという意識に苛まれて激しく自責の念が湧いてきます。
現在のおいらはなんて情けない状態なんだと思い知らされて辛いんですな。
色々と汚い世界を見てきました。
おいらにお似合いの世界を探し求めてどっぷりはまり汚い状態をより汚く、より醜く最低な人間になるようにしてきたんですな。
しかし心が求める「美しい事象」に対する渇望を否定する事が出来ず、少しでも美しいモノを見続けたいと願うおいらが居ます。
命の美しさ、自然の美しさ等の「神の創造物」というのは存在自体は絶対的な美しさを備えています。
人間が汚した地の産物でも美しさは反映され、美しく、凛々しく、一瞬の輝きの為に儚げに咲き、そして次の年への備えをする一連の事象というのは「くすしい」と言えるのでしょう。
なぜ不完全になってしまったのだろうかと考えざるをえません。
今日の研究記事で気になった事はダビデは「神は身体をくすしく作られている」という事でした。
このことでおいらが以前書いた覚えがあるのですが、どこに書いたのか覚えていないし、調べるのも面倒くさいのでもう一度書こうと思います。
人間の身体について
人間の身体は今日の研究記事ではそれほど深くくすしく作られていることについては書かれていませんでしたが、調べれば調べるほど個々の骨や臓器の形態というのは美しいと感じる訳です。
例えば「鎖骨(さこつ)」について書いてみます。
鎖骨というのは皆さんご存じの首の付け根にある骨です。
Imageが鎖骨なんですが、この曲線の美しさというのは素晴らしいと感じる訳です。
この一つの骨だけでもこんなに美しい曲線で形成されており成長や老化に伴って大きさが変わることを考えると人間が調整や矯正を施すことの難しさというのははかれません。
そして同時進行ですべての骨や筋肉や臓器などを常に健康な状態に保つように自律神経というのは働くように出来ています。
しかし驚くべき事は人間の身体の構造は加齢に伴ってや、毎日の習慣や生活、仕事で変形したことをのぞけばほとんどの人が共通の形をしているという事実です。
よって医学というのが進歩してきたんですな。
また筋肉も個々の筋肉を見てみると美しいと感じるんですよね~....
臓器も素晴らしく循環器系も素晴らしく整えられています。
その中で目というモノもあります。
目というのはモノを見る事が出来る人間にとってはモノの認識や確認に関してはかなりの部分を占めています。
目が見えないのと耳が聞こえないのとではどちらにアドバンテージがあるでしょうか?
目が見える人は口で話していることを理解できる事を鑑みれば耳が聞こえない方が条件が悪いのでしょうかね。
それとも耳が聞こえる人は耳がかなり発達してモノの存在を口から出す音で確認するような事が出来ますので目が見えない方が条件が悪いのでしょうか。
どちらにしろ世界観が全く異なる世界で生活されているのは間違いないでしょう。
「目は口ほどにものを言う」という言葉があります。
では耳はどうでしょうか?
「耳の形状は聴く事に特化した素晴らしい構造をしている」とおいらは考える訳です。
かなりの割合で「目」は扱われますが、耳も実に素晴らしい構造をしています。
どちらも情報を取り入れる機能ではかなり大きな役割を果たしていることは間違いないでしょう。
形状や構造は人間なんかが作るスピーカーなんかまっつぁおでクリアに音を広い聴きたい情報を聞き分ける訳です。
まあこれは心情とリンクする部分がありますが、人との会話を録音したモノやビデオテープで撮ったモノを見たり聞いたりすると雑音の多さにびっくりするはずです。
「あの話をしていたときにこんなに周りが五月蠅かったんだな~」と思うことが多いんですな。
よって聴きたいことを聞き分ける能力というのはすごいことだとも感じます。
目の良さについてはおいらは写真を撮りますのでこのBlogでしょっちゅう書いてきました。
ピントスピード、適正露出、動体認識スピード、絞りなんかがオートで反応しては見ることが出来る訳です。
ハード的には素晴らしい構造なのは解っています。
聴くにしても見るにしても問題は「心の問題」なんですな。
ひねくれて、批判的な見方しかできなかったり、ある人を嫌っているからあの人の言う事は聴かないなんて考えるのは問題があります。
そもそも人の言うことで間違っていることに過敏に反応しすぎることに問題がありますがね。
おいらの場合はこれに加えて心が汚いので受け付けない事があるということでしょうか。
人間というのは不完全で物事を行うにしても限界があります。
よって時に出来ていないことも発言しなければならないこともあるでしょう。
その事を認識している方が適切に話されるのであればなんの問題もないのです。
しかし出来ても居ないのにさも出来ているように話をする人間に嫌気がさしてくる訳です。
そんな人間から益を得る事なんてしたくもないとか考えてしまうんですな。
人の「器」というのは心にありますが、おいらは「器の小さい」人間なんだと常々考えさせられます。
もっと心を広く大きくして物事を見ていきたいもんですな..........
余りにも美しいモノを見ていると見窄らしい自分の姿を情けなく思います。
こんな自分が存在している自体が罪なのだという意識に苛まれて激しく自責の念が湧いてきます。
現在のおいらはなんて情けない状態なんだと思い知らされて辛いんですな。
色々と汚い世界を見てきました。
おいらにお似合いの世界を探し求めてどっぷりはまり汚い状態をより汚く、より醜く最低な人間になるようにしてきたんですな。
しかし心が求める「美しい事象」に対する渇望を否定する事が出来ず、少しでも美しいモノを見続けたいと願うおいらが居ます。
命の美しさ、自然の美しさ等の「神の創造物」というのは存在自体は絶対的な美しさを備えています。
人間が汚した地の産物でも美しさは反映され、美しく、凛々しく、一瞬の輝きの為に儚げに咲き、そして次の年への備えをする一連の事象というのは「くすしい」と言えるのでしょう。
なぜ不完全になってしまったのだろうかと考えざるをえません。
今日の研究記事で気になった事はダビデは「神は身体をくすしく作られている」という事でした。
このことでおいらが以前書いた覚えがあるのですが、どこに書いたのか覚えていないし、調べるのも面倒くさいのでもう一度書こうと思います。
人間の身体について
人間の身体は今日の研究記事ではそれほど深くくすしく作られていることについては書かれていませんでしたが、調べれば調べるほど個々の骨や臓器の形態というのは美しいと感じる訳です。
例えば「鎖骨(さこつ)」について書いてみます。
鎖骨というのは皆さんご存じの首の付け根にある骨です。
Imageが鎖骨なんですが、この曲線の美しさというのは素晴らしいと感じる訳です。
この一つの骨だけでもこんなに美しい曲線で形成されており成長や老化に伴って大きさが変わることを考えると人間が調整や矯正を施すことの難しさというのははかれません。
そして同時進行ですべての骨や筋肉や臓器などを常に健康な状態に保つように自律神経というのは働くように出来ています。
しかし驚くべき事は人間の身体の構造は加齢に伴ってや、毎日の習慣や生活、仕事で変形したことをのぞけばほとんどの人が共通の形をしているという事実です。
よって医学というのが進歩してきたんですな。
また筋肉も個々の筋肉を見てみると美しいと感じるんですよね~....
臓器も素晴らしく循環器系も素晴らしく整えられています。
その中で目というモノもあります。
目というのはモノを見る事が出来る人間にとってはモノの認識や確認に関してはかなりの部分を占めています。
目が見えないのと耳が聞こえないのとではどちらにアドバンテージがあるでしょうか?
目が見える人は口で話していることを理解できる事を鑑みれば耳が聞こえない方が条件が悪いのでしょうかね。
それとも耳が聞こえる人は耳がかなり発達してモノの存在を口から出す音で確認するような事が出来ますので目が見えない方が条件が悪いのでしょうか。
どちらにしろ世界観が全く異なる世界で生活されているのは間違いないでしょう。
「目は口ほどにものを言う」という言葉があります。
では耳はどうでしょうか?
「耳の形状は聴く事に特化した素晴らしい構造をしている」とおいらは考える訳です。
かなりの割合で「目」は扱われますが、耳も実に素晴らしい構造をしています。
どちらも情報を取り入れる機能ではかなり大きな役割を果たしていることは間違いないでしょう。
形状や構造は人間なんかが作るスピーカーなんかまっつぁおでクリアに音を広い聴きたい情報を聞き分ける訳です。
まあこれは心情とリンクする部分がありますが、人との会話を録音したモノやビデオテープで撮ったモノを見たり聞いたりすると雑音の多さにびっくりするはずです。
「あの話をしていたときにこんなに周りが五月蠅かったんだな~」と思うことが多いんですな。
よって聴きたいことを聞き分ける能力というのはすごいことだとも感じます。
目の良さについてはおいらは写真を撮りますのでこのBlogでしょっちゅう書いてきました。
ピントスピード、適正露出、動体認識スピード、絞りなんかがオートで反応しては見ることが出来る訳です。
ハード的には素晴らしい構造なのは解っています。
聴くにしても見るにしても問題は「心の問題」なんですな。
ひねくれて、批判的な見方しかできなかったり、ある人を嫌っているからあの人の言う事は聴かないなんて考えるのは問題があります。
そもそも人の言うことで間違っていることに過敏に反応しすぎることに問題がありますがね。
おいらの場合はこれに加えて心が汚いので受け付けない事があるということでしょうか。
人間というのは不完全で物事を行うにしても限界があります。
よって時に出来ていないことも発言しなければならないこともあるでしょう。
その事を認識している方が適切に話されるのであればなんの問題もないのです。
しかし出来ても居ないのにさも出来ているように話をする人間に嫌気がさしてくる訳です。
そんな人間から益を得る事なんてしたくもないとか考えてしまうんですな。
人の「器」というのは心にありますが、おいらは「器の小さい」人間なんだと常々考えさせられます。
もっと心を広く大きくして物事を見ていきたいもんですな..........