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思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記




作品撮影の大凡の目安が付きました。
やっと取り取り掛かれるという気持ちが大きいのですが、あとは照明も揃えたいという気持ちも少なからずあります。

今月は車検と三脚と家族への投資が重なったために出費がとんでもない金額になりました。

車検は自分で行える作業は何とか自分で行って最小限の金額を目指し、効果は明確に上がったことは確かです。

わたしの考え方の駄目なところは質を追求するところなのですが、これは長い目で見れば作品の質を向上させるにあたって長期的にも短期的にも「裏切らない」モノであることが大前提としてあります。
ロジカルに考えると即物的で対処療法的に買い物をすることは嫌悪の対象になります。

以前に上の妹に言われたことがありました。

「なぜ良いモノを買ったり使おうとするのか」

というような内容の言葉です。
わたしはどれだけ金銭的に厳しくとも、どれだけ感情的に苦しくとも良質のモノを使いたいと願ってきました。
理由は上記にも書きましたが、

「良質のモノは良質のモノを生み出す傾向がある」

からです。
確かに質の悪いモノからも生まれる傾向があるのは間違いありません。
しかし「納得してモノを使うかどうか」という根源的で人間の本質的な理由に対しての答えとして「安かろう悪かろう」と言われるモノを使えるかというとわたしはできません。
納得し満足して「大切に」モノを使いたいのです。
例として「カッターナイフ」を上げてみましょう。

「ダイソーなら108円だよ。」

と言われてその場はその助言に従い、ダイソーで購入し、それを使い続けるとします。
しかし納得も出来ていないモノを使い続ける事ほど苦痛を感じることがあるでしょうか。
わたしは購入時に使用時のことを考えます。
つまり「費用を計算する」訳です。
助言をして貰ったのですから取り敢えずは購入はするでしょう。
ただ購入時にどれほどの苦痛を感じているかは軽率に助言した人間には想像すら付かないでしょう。
わたしからすると納得も出来ないモノに金を出すと言うことは「お金を捨てるのと同じ」なのです。
更に使うにあたっても同様です。
対外的には丸く収まりますが、わたしの中では

「使いたくも無い道具にお金を出し、それを使い続けなければならない」

という「拷問」を一定期間受け続ける必要があるのです。
この拷問はモノを購入する際に助言を戴いたときから発生します。
道具は使い続けなければならないモノです。
そしてカッターというのは使用頻度の高いモノであり生活である程度の環境変化をもたらします。
それが快適に使用出来るか、納得して長期間使用出来るか、買い換え、買い増し時にも割り切れるかどうかも重要です。

カッターというのは生活の中での一面に過ぎませんが、カッターでさえこれだけ人間に影響を及ぼすのです。
苦しんで使用し続けるかどうかを左右するほどに重要視していない人間が多いのですが、道具というのはそういうモノです。
ある程度の費用対効果は考える必要がありますけどね。
コストとパフォーマンスの兼ね合いで良いモノをわたしは真剣に調べ尽くすので、この点は全く問題ありません。
どのような価格のモノでも徹底的に調べてからしか判断する気もありませんし、多少なりとも意見は参考にするでしょう。
ただ自由意思を実行することが許されているカテゴリーで物事を判断する際に、軽率に発言する人間の無責任さには嫌悪を感じますね。
カッターの場合にわたしが使用しているのは

オルファ 特専M型カッター 145B

です。
ダイソーと比較するのであれば4倍にもなりますが、拷問のように使い続けることを苦痛と感じるぐらいであればこの程度の出費というのはしれています。
更に書くならば108円+303円ほど出すならば拷問のように感じた買い物をしなくても良かったのです。
この「+αの出費」を躊躇う人間の論理が逆に、というか全く理解出来ません。
拷問だと感じている環境で「Creativityの高いモノ」を生み出すことが可能でしょうか。
まず、拷問だと感じている時点で生産性が低い活動になること請け合いです。
これは環境によって良いモノを生み出す可能性が低いことが保証されています。
なぜなら、そこには前向きな思考や論理、活動が根本的に期待出来ないからなんですね。
わたしは店で働く際にも支給されるモノではなく、自腹で自分が使いたい同種の道具を使うことを選ぶでしょう。
気持ちよく仕事をしたいという積極的な人間に誰が否定的な意見を言う権利があるでしょうか。
自腹でならなおさら言う権利が無いのではないでしょうか。

ロジカルな人間がエモーショナルな人間とは会話が全く噛み合わないのは当然なのですが、わたしの場合に生活スタイル全体にわたってロジカルに徹する傾向があります。
よってわたしが行動するプロセスというのは蓄積されたDataから割り出した他の人の傾向から弾き出し対応していることが少なくありません。

わたしのことを尊重して下さり、わたしのことを考え、わたしのために何らかのアクションを起こして下さるのであれば、わたしはその人のために可能な限り最善を尽くして行動するでしょう。
また考え方、思考、論理が変わらない限りわたしはその人のためならばわたしの可能な限りの中でも優先的に物事を行い、それに費やし尽くしても後悔することは無いでしょう。
なぜならば、この種の方はわたしの行動論理を理解し、尊重し、感謝し、わたしのためにも行動して下さるからです。
これほど救われることは無いでしょうね。

では逆はどうでしょうか。
わたしは他の人とのいざこざを嫌悪します。
よってある程度の害となる行動を取られても、わたしは温和に済ませようと努めます。
わたしは他の人の動機や感情、論理を蓄積させたDataから割り出す為に一定期間の猶予なり間隔を保つようにしています。
でなければ本当の人となりや、発言の意図が理解出来ないからです。
また人から聞いた情報というのは、相対的なモノでしかなく直ぐにその情報によって接触方法を変えるということはまずしません。
わたしに関係を左右させるような行動をさせるということは、その人の論理的思考を読み取りある程度の確信が無い限りはしないということですね。

わたしの行動原理は基本的に

「他の人の為に最善を尽くす」

という概念が外せません。
ロジカルで努力を怠らない人間のためには最善を尽くそうとは思いますが、「感情的でその場が良ければ良い」という非聖書的な人間のために行動をするほどお人好しではありません。
人は行動するにあたっては「費用を計算する」事から始めねばなりません。
「即物的に」行動する人間というのは非常に愚かな類いの人間でしょう。
このような種類の人間というのは「対処療法」的な手段しか思いつかず、ロジカルに考えている人間の活動を平気で阻害し、さもそれが当然のように振る舞います。

......まあね。
論理的(ロジカル)な人間の少なさには悲しくなりますよね。
どれだけの人が大局を見られているのでしょうか。
またどれだけの人が関係する個々の家庭の事情を理解し天秤に掛けているのでしょうか。
「何事にも時がある」ということも理解している人がどれだけ居るのでしょうね。

わたしは誰よりも愚かであることは前提としてあるのですが、状況把握能力は高い方です。
また危機察知能力も高い方でしょう。
加えて人のわたしに対しての感情などの面でも感度は高い方です。
解っていないと思われている人も多いかと思いますが、わたしは他の人のプロファイリングというのが好きなので大概は解っています。

これは生まれてから思春期に至るまで、

「比較的に都会のある町の中の商店街にある世知辛い大人の世界」

で育ったことで余計な能力が身についてしまっているということでもありますね。

ある面ではわたしは愚かですが、ある面ではわたしの方が優れているという点があるというのも人間なら当然理解出来るでしょう。
理由は人は関心がある点は集中的に成長するからです。
反動形成という形で人よりも劣っていると認識した部分を努力で克服し、人よりも遙かに優れた能力を劣っていた分野で身に付けるということも往々にして起こることが人間です。
わたしの場合は反動形成で構築された分野が非常に多く、劣っていたカテゴリで優れた能力を身に付けていることが多く感じています。

わたしは平等と公平というカテゴリに関して非常に敏感な察知能力を得ることになっています。
簡単に書くと、

「軽んじられているか、重んじられているか」

更に書くと

「馬鹿にされているか、尊重されているか」

となります。
加えてわたしは一回で判断するということはまずありません。
継続的に示されているかどうか、また人としての傾向を見るのです。

わたしを「重んじ、尊重して下さる方」に対してはわたしは費やし尽くすつもりで居ます。
ロジカルで物事を大きく見られている人ならば、なおさらそうするでしょう。

では「軽んじ、馬鹿にする人間」に対してはどうでしょうか。
このような方に対してもある程度は、その人のために物事をおこないますし、最善を尽くすことは当然のことです。
ただし、一定期間そのような扱いが続くようであれば、理解させる行動が必要になります。
相手側としては、馬鹿にしていて現にそのように相手の立場からすると映っているでしょうね。
わたしは観察し、理解する過程というのは確信が出来るまで続ける傾向にあります。
よって相手がそのような行動をするのが当たり前になり、相手の思考の中でわたしはそのように映るように仕向けるようにもします。

ここで考えて戴きたいのはどちらが「愚か」であるかということです。

相手を尊重しない人間の多くはエモーショナルな傾向がある人間であるということですね。
当然ながらこの種の人間は聖書的ではありません。
感情は一時的で悪影響しか及ぼさないことを理解出来ていないのですから、クリスチャンであればなおさら悪質であると言えるでしょう。

しかし逆にどのような相手でも「まず尊重できる」方というのはどれだけ聖書的なのでしょうね。
自分のことはさておき、まず相手のことを考えられる方がどれだけ居るでしょうか。
エモーショナルな人間というのはこのような示された親切を基本的に見過ごす傾向にあります。
というより、気が付いていない事が少なくありません。
ロジカルな方であれば、まずこのワンクッションがあることで、どれだけの人格者なのかを推し量る度量衡の基準とされていることでしょう。

軽んじる人はどこまでも軽んじます。
それはエスカレートしていく傾向があるからです。
しかもその「人間としての浅さ」も簡単に計ることが可能です。

わたしに行動まで起こさせた人間というのは逆に大したものだな~とも思いますね。
わたしは大変気が短かった故に、反動形成で外面上は「非常に気が長く怒らない」と思われている方が少なくありません。
また感情が露わになるほど行動を起こすということは、蓄積された負の感情が一定量を超えない限りはありません。

あくまで”本当の意味”での聖書的に物事を行える人間になりたいと願っています。
聖書を書かれた神様に見習って生きていきたいモノです。

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