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JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



おいらの言うことは見当はずれだと考えられることが多いんです...........................

おいらからすると順番などを踏まえてこれをするべきだと考えていて其れを口にすると

「何言ってるの?」

というような顔をされることが少なくありません。
確かにおいらの言うことは的はずれで全く違うことを口にしているような錯覚を起こさせることは確かです。
でも性格上仕方がないんですよね。
おいらは逆算的に物事を考えて物事を行なっていくタイプの人間です。
買い物をする際にも直ぐに必要ですぐに役立つ買い物もしますが、逆に「いつ使うの?」といわれてもおかしくないモノを買っているようです。
おいらからすると当然買うべきモノで、こういった買い物は使用頻度が徐々に上がっていくモノだと考えています。
というかモノを買う際によくよく考えてみれば解ることなんですよね。

買うモノというのは今までの生活の中には存在していなかったモノなんですよ。

そしてそれを買ってきて急に使用し出すかというとスタートダッシュは大なり小なりありますが、それ以降の使用の度合いの方が遙かに大切だとおいらは考えています。
買ったモノというのは最初は使うのは当り前です。
なぜならば「欲しい」と考えて購入したからです。
よって買ったばかりの時は家にいれば其ればかり触っている状態がしばらく続きます。
でもある時点でモチベーションというのは格段に下がりますし、飽きてしまうと使わなくなることも少なくありません。
おいらはこの「使わなくなること」を嫌う傾向にあります。
確かなこととしておいらはこの傾向が顕著で今までの生活でも使わなくなったモノが沢山あります。
それにこの記事を書く理由はおいら自身が非常に飽きっぽい性格でもあるからです。

よっておいらは一工夫している訳ですよ。
買ったモノはすぐには生活の中には投入しないという方法を取り入れている訳です。
買うモノというのは殆どの場合に生活をより快適にしていくモノであることは確かでしょう。
でも急に環境が変わるとすぐに其れをアテにしてしまって慣れていく傾向にあります。
これは悪い慣れ方だとおいらは結論しています。
人間というのは便利なモノをどんどん取り入れて生活を豊かなモノにしているという錯覚を起こしています。
しかし振り返ってみると買ったモノのありがたみを忘れがちなんですよね。
これは冷蔵庫、洗濯機、TVなどの昔の「三種の神器」を見れば即結論が出ます。
そして食洗機、携帯電話、クーラー、車、デジタルビデオカメラ、Digital Camera、DVDレコーダ、薄型TVなど生活を豊かにするモノが次々に現れてきました。

ではこれらが行なう作業によって産まれる時間を人間は有効に使ってきたでしょうか?

これは「使ってこなかった」と言い切れるでしょう。
家族団欒の時間が増え、愉しい生活を送れるとメーカーは謳っていますが、人間の浅はかな考えが満ちつつある世の中です。
そしてこれらが代わりに行なっている時間というのは逆に人間関係を築いてきたモノだったことも少なくないでしょう。
よって「あって当り前だ」という認識は大きな間違いで、これらを買って得た時間を有効に使うように確認しながら使うべきなんですよ。

話が大きくずれましたが、これはおいらが日々感じていることです。
便利なモノを購入して其れが代わりに作業してくれて時間が出来ると「そこに」仕事を入れるのではなく学ぶ時間にするようにしたいものです。
だからこそおいらは徐々に生活の中に取り入れていくんです。
時においらは買ってもすぐに封から開封せずに寝かせておくモノまである始末です。
これは極端なことなんですが、満を持して使うべき時を迎えるまで「使わない」という制限を課す訳です。
せっかく手元に来たのに勿体ないな~という意見もあるでしょうね。
おいらも当然ながらそう思います。
デジタル製品などでは使わない間にも進歩していくのですからね。
でも極端な変化が起こりにくい分野のモノの場合にはこれは非常に有効な効果があるんですよ。
そして使い始めると決めた日まで使わず、例えそれを使えば作業効率が上がることがあっても今まで通りに作業を行なうんです。
いざ作業効率が上がると解っているものを手に入れて使わないように意識しているとどれだけ効果があるのかは具体的には解りませんが、確実に認識するはずです。
この確認することが重要な訳ですよ。

モノの購入に関してはこんなところでしょうかね。
言うことに関しても少し書いておきましょう。
おいらは頭が悪いことはまちがいありません。
よって基礎から構築していく大切さに関しては痛感しています。
例え遠回りになろうともそうですな。
たとえて言うとブロック積みでも出来たところからどんどん上に積んでいくような方法は余り好きではありません。
ベース(基礎)の絶対値は技量に比例するという考えを信条としていますから、途中から学ぶことも好きではありません。
加えて例え知っていても確認の為に重複することも学ぶことも苦痛ではありません。
こういう考えですから、ほかの人はどんどん一部の知識を伸ばし高めていても、おいらはまだ基礎を構築する段階にいることが多い訳です。
よって「今更」とか「今頃何を言っているの?」という反応に会う訳です。
おいらは不確定要素の塊みたいな人間ですし、それが非常に大きなコンプレックスになっている訳です。
よって自分の考え得る限りの方法で確実にそして徐々に基礎を構築していかなければ、おいらが立ちゆかないことは良く解っています。
だからこそ自分で解る範囲で基礎を網羅することができるとそれを見返して確認してからでしか上の知識を求めようとはしないんですな。
基本的に馬鹿なのですから、これでも足りないぐらいだと良く考えます。
もっと基礎をかみ砕いて理解しなければならないとも考えていますし、「もっと知りたい」と思うことは山ほどあります。
しかし人間というのは惨めなモノです、時間的制約、体力的制約、金銭的制約、精神的制約がつきまとい拘束します。
よって余計なことは出来ないと諦めるしかありません。

世界には人が知りたいことを神が満たされているという事実があり、寿命という制約があるのですから今の体制でおいらは満足して死ぬ事は決してないでしょう。
聖書の中には永遠の命を持ってしても知ることが不可能な量の知識で満たされたとあるんですな。

おいらは緩慢で鈍重で思考力の欠如が目立ち、知恵も知識も爪のあかよりも少ない人間です。
何故こんな人間が生きているのかを考えるんですよね。

だからほかの人がおいらの言うことが解らなくて当り前だとこの頃考えることが出来るようになってきました。
ほかの人は優秀だから先に進めば良いんですよ。
「発想の柔軟な方」や「先見の明に富んでいる人」、「記憶力にいい人」、「知識量の豊かな人」、「様々な視点から見られる人」などは一つのことから百のことを見いだし得るでしょう。
しかしおいらは頭が固く、理解力も乏しい人間ですからな。
おいらのような劣等生はこつこつとやっていかねば生きることも否定される世の中ですから、ぼちぼちやっていこうと再確認できました。

おいらも遠回りが若い頃は好きではありませんでした。
今から考えると僭越も甚だしいのですがね。
そしておいらの順番とは全く別世界の方達においらの意見が通る訳もありません。
逆算的に物事を構築していくことが出来ないと不安にはならない方達を羨ましく思いますけどね。
まあ、こんなことを書いたおいらもここに書いたことが全てに当てはまることは無いことも断っておきます。

なんだか言いたいことが伝わりきっていないような感覚がつきまといますな。
「わだかまり」というか少し書きたいことが書ききれていないんですよね。
記事にするというのは口語とは違ってすぐに文章にならないのでストレスになる事が多いんですよね。
多少なりとも語る方が簡単ですし、直接的で直感的な表現が可能なような気がします。
これはKeyboardで打つという人間が行なう自然な表現とはかけ離れた別の作業が邪魔しているような気がしてなりません。
伝わるでしょうかね~。
この気持ちの悪い感じが............
まるで他人事のような文になってしまうのが辛いんですよ。
もっと自分なりの言葉というモノがありそうなモノですが、おいらは生憎語彙が少ないので仕方がないですな。

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