扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記

思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。

Mind Darkness No.113 2012.06.11

2012-06-11 20:39:45 | Depression,Melancholy & Thought
何処にいても感じるんですよ..................................

「自分の居場所がないと感じていて、帰る場所が無い」とね。
今のところ実家に住んで居るのですがね。
愛媛に来てからこのかた安心して落ち着いた気持ちで生活することが無いんですね。
現在、本格的な引越しを考えてはいるのですが、今の精神的な調子では何処に行っても同じのような気がします。
というより家族と住んでいても「環境が悪い」というのが一番最悪なのではないでしょうか。

「美しくない」

この自分の主観からしか判断できない判断基準がこれほど重要だったとは思いませんでしたね。

自分さえ我慢すれば何とかなる
自分の美的感覚さえ犠牲にすれば良いのだ

というふうに割り切ってきたのですが、どうも自分の判断基準を犠牲にするということが一番「堪える」ということが最近やっと理解できるようになって来ました。

自分を犠牲にして生活していくことほど「美しい」ことはない

これは厳然たる事実です。
「自己犠牲」ほど美しい事象はこの世にはありません。
ただこれは自分に自信を持ち、自身が充実している人間に関してのみ当てはまるようですね。
人間というのは何処かが欠けているとBalanceがとれなくなり、落ちていくことになります。
「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉があります。
おいらはどうも遣り過ぎてきたところがあるんですよね。
そしてそれが現在の心情に多大な影響を与えているというのも理解できるようになってきました。
自己犠牲というのは平衡をとって、まずは自分自身に栄養を与えないと駄目なようです。

また

他人に合わせる

というのも平衡を取らなければならないことですね。
他人主体で、他人中心で生きてきました。
他人が喜べばどれだけ自分が苦しくても、それを喜びたくなくても「無理して」喜ぼうとしてきました。
他人がおいらのことを考えてくれなくても、他人が何もしてくれなくても、与えることを喜ばなければならないのだと考え続けてきました。
「受けるより与えるほうが喜びです。」という聖書の言葉があります。
しかしもうお腹がいっぱいになりました。

苦しくて、辛くてそれでも無理して与え、それを喜ばなければならない

鬱病になった原因に仕事からは喜びを得てはらなず、金の為だけにしか働いてはならないと押し付けられ、心も体も動かなくなったことがあります。
あの時と同様にもう動かなくなりつつあります。
これは現在の仕事の状況も影響していることとは思いますがね。

おいらは何より心からの喜びを切望しているところがあるようです。
心からの充実感を切望しているところがあります。
心からの平安を切望しているところがあります。
心からの満足感を切望しているところがあります。

そろそろ自分をMainにしても良い頃だと考えているんですね。
家族でも、親族でも、他人でもなく、おいら自身がおいら自身の手付から働いた成果を味わっても良い頃だと判断しています。
出し惜しみをするわけではなく、自分自身が働いて得たのですから、それによって満足を得ることは間違いではないと思えるようになりました。
ただ今までのおいらを知っている人が居るとどうしてもそれに引き摺られるんですよね。

両親や家族、病院の先生もですが、取り敢えずは近くに引っ越すようにと勧められます。
そして自ずと近くに引っ越すことが当たり前のように話が進んでいきます。
これが苦痛でなりません。

なぜ現状から殆ど変わらない状態にしなければならないのか

と考えてしまいます。
「生きていることが辛いなら」という森山直太朗さんの歌がありますね。
死んだとしても3日もすれば元通りになるという歌詞があります。
人間の影響力というのはそんなもので、居なくなっても全く影響力は無いんですよ。
居なくなって寂しいと一週間以上も思うのは家族や親族ぐらいでしょう。
これは生きている人間が引っ越すことも同じです。
姿が見えなくなるというだけで影響力というのは全くなくなりますからね~。
人間が影響力を被るのは信じきって頼りきっている人間ぐらいでしょう。

そういえばスティーブ・ジョブズの影響力は凄いものがありましたね。
亡くなった喪失感というのは本当に大きなものがありました。
特にAppleの機器を使用している人間にとっては本当に大きいものでした。
おいら自身の中でも彼が亡くなった際の悲しみというのは親族が亡くなったほどの悲しみがありましたね。
Mac Userとして彼のIdeologyがこれから先に反映されることが怪しくなっていくAppleが心配でなりません。
この話はこれぐらいにして、おいらの影響力なんてたかが知れているんです。
他人からすると「爪の垢がどうなるか」なんて知ったこっちゃないでしょう。
それと同じです。

フッと居なくなっても世界は全く変わりはしないんですよね。
そう考えると楽になりました。
それに人のことをもう考えなくて済むと考えるとすっきりしますね。
ふと生活していると「あの人にアレをしてあげなければ」、「この人にこれこれの事をしてあげなければ」とよく考えていたのだと痛感します。
自然とそういうふうに考えている自分がいるんですね。
これは確かに良いことです。
ただ負担になっているというのが問題なのです。
それも只ならぬほどの負担です。
これが考えの中心にあり、ずっと考え続けていたほどで出来なければ落ち込んでいたぐらいです。

あの環境が異常だったのだと客観的に見ると理解できます。
自分のIdentityを大切にし、審美眼を信じ、自分の価値判断が正しいと確信しながら生活するというのは人間としては当たり前なんですね。

最近やっとそれが解るようになって来ました。
道理で生き辛いと感じるわけですね。
これからは他人の世話を焼くばかりではなく、他人に世話を焼かれるぐらいになってもいいでしょう。

この頃はかなり調子を崩しているんですよね。
どうも行動できないんです。
どんどん行動して遣りたいことだけをやって行きたいモノです。

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