高校生になった子が毎日学校の勉強を予習していかなければならないらしいんですよ........................
正直なことを書くとおいらは学ぶことが大好きで時間があれば勉強をし続けること苦ではありません。
おいらの見地からすると勉強というのは車でのDriveと一緒で気分転換の一種になります。
しかし「学ぶこと」は選んでいかねばなりません。
これは当然でしょう。
学生の本分は確かに勉強ですし、集中して学ぶことは益があります。
でも平衡の取れていない勉強方法というのは何の益にもなりません。
暗記の為に何度も字を書かせる宿題がありますよね~。
あれってどうなんだろうとか考えるんですよ。
「字を書く」というのは書いている文字の意義を理解した際に適応させることが出来る書き方であって、反復作業でもただ単に覚える気もなく写すだけの作業というのは知らない言語をその形通りに書き写すことに似ています。
確かに覚えるために反復作業として行なう事には効果が認められています。
これが無駄だとは言ってもいませんし、記憶を辿る際に学んだ記憶があることもあるでしょう。
文字だという認識をしていなくて書いていくComputerには知能があるのかを測ろうとする「人工知能」に対してのテストと一緒でしょう。
このテストは「チューリング・テスト」と呼ばれていてテストパターンによっては人によってComputerは理解していると見なされうるテストなんですがね。
Computerというのは人間が構築したプログラムによって結論を出していきます。
まあ昨今のコンピューターシステムというのは非常に優秀でプログラムも最初に開発されたモノからはとんでもない情報量が詰め込まれるようになりました。
よってOS(オペレーティングシステム)のData量が増えていくのは仕方がないんですな。
それに複雑化して様々な人間がプログラムに関わるようにもなっていますよね。
一人の人間の思考だけであればこの種のテストというのは明らかに人工知能には「理解が出来ない」と結論づけることが出来ますが、複数の思惑というのは同じモノもあれば全く違うモノもある訳です。
そして開発環境も違うこともありますし、知識レベルによっても異なっていきます。
ここで面白いのは開発者が「チューリング・テスト」で行なう質問の答えをComputerにインプットさせていると理解しているという答えが出るのに、質問した答えが用意されていない場合に「所詮は人工知能なのだ」という認識が産まれる所でしょうね。
開発者も一人の人間です。
人間というのは往々にして自分の興味のあることしか反応しませんし、手伝おうともしませんし、自分からはアクションを起こす頃はまずありません。
これは全ての物事に対して当てはまります。
よって質問に対する答えが人工知能のプログラミングを行なった中の一人でも感心があってインプットされていると答えが産まれると言うことにあるのでしょう。
将来的には人工知能にはもっと沢山のDataが詰め込まれるでしょうし、質問に対する答えもInternetとの繋がりを創ることが出来るのであればComputerが勝手に答えを見つけ出し答えることも可能になるという点でしょう。
つまり多くの場合に答えを提示できる可能性が高まっていると言うことなんですな。
しかしチューリングテストの発展系である「中国語の部屋」というテストは上記の人工知能の返答能力に疑問を呈する内容になっています。
これは人間が行なうシミュレーションでしか再現できないんですけどね。
Computerというのはただ単に演算能力に秀でているに過ぎません。
数字やAlphabetの羅列から答えを見いだしていると言うことなんですな。
殆どの場合にComputerというのは基本言語としてAlphabetと数字、記号で成り立っていますからね。
そして脳で言うシナプスがインターネットに接続されていると天文学的な数字になるわけですよ。
人間の脳の中と同じ程度の数だった覚えがあります。
となると人間というのは殆どの分野で関心のある人がいるのですから、答えはどこかからは見いだせますよね。
そして質問して答えをComputerが正確に返答することが出来るならば「Computerそのもの」が認識し理解できていると言えるのでしょうか?
Computerというのはプログラムされていること以上のことを行なう為には更に追加するプログラムが必要になります。
確かに学習機能がありますが、この学習機能というのはプログラミングに基づいていますし、人間が一度パターンとして入力する必要がある訳です。
つまり使用している人間も一人のプログラマーになっているんですな。
それに基づいて答えを導き出していくのですから、ただ単にComputerというのは「使われる為にある」という結論に行き着きます。
Computerと人間には絶対的な違いがあります。
知能というような学習すれば学べる種のモノではなくて「5感」もありますしね。
それに第六感と呼ばれる種のモノがあるんですよ。
これは余にも多すぎておいらはもっと多いと考えているぐらいなんですけどね。
他の感覚というのは定義が曖昧なので5感とされているんですな。
それに「ほかの人の必要を読み取る」というような作業というのは出来ないんですな。
これは「自主性」とか「個性(Identity)」によってでしか認識できない種のモノでもある場合が少なくありません。
最近のロボットも確かに凄いと思いますけどね。
有機物と無機物の差は知れば知るほど広がっていくという事実は皮肉なモノですね。
えーっとこれは反復学習の効果を認識している人としていない人の違いに対しての記事になってしまいましたな。
学習に関してはもっと他にも書きたいことがあるのでまた「勉強」に関して書こうと思います。
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