思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



自分の中で自分を全て否定していた時期があったのですが...........

いろいろと目の当たりにしていると「物事の認識度」や「知識の絶対量」でわずかにおいらの方が知っていることがあったりすることが出てきました。
10代後半から20代前半は全く同じぐらいの感覚で物事を見ていました。
子供だったんですな。
かなりの重度の空回りで回っていたはずなんですよ。
一人相撲で喜怒哀楽を味わって人の考えや見方をImageしては一人で落胆していました。
落胆するということは「まだ」落胆することが出来る自尊心がそこに存在している訳です。

先日ある方が「自尊心のない人なんていない」という発言をしました。

おいらはこの意見は間違っていると考えています。

おいらは自分のことを90パーセント程度つまり自分に出来る自己否定方法を追求するように努めました。
周りの人間を見ていると人間に出来る自己否定方法でもけっこう厳しい方だったと思う訳です。
おいらは最善を尽くして自己否定を行ないましたのでおいらの考え得るすべてをもって自己を否定しました。
おいら自身にとっては100パーセントだと言っても良いぐらいなんですけどね~。
「90パーセント」としたのは今から考えるとまだまだ自己否定の余地がたくさんあったということなんですな。
人間というのは生憎成長していきます。
経験というのは物事をより深く見ることが出来るように自ずとなっていきます。
これは「自分で望んでもいない」のに「同じ事」を考えているとなっていく訳です。

よって「こんな生ぬるい状況で生活していて物事が達成できるのか?」という強い疑問を良く感じます。

自分に厳しいという基準が人によっては余計にエゴイズムを増し加えていることまである始末です。
冷静に見ているとほとんどの場合は「それをするならもっと先にすることがあるだろう」と感じます。
おいらは何事も「順序が有」り「効率良く」物事を行なわなければならないと考え、この行動基準を追求して「逆算的」に考えて実行してきました。
おいらの基準でですが、おいらの中で出来ることは最善を尽くして「自己否定をする」という物事を追求しましたな。
世間の諸兄たちからすればおいらも「まだまだぬるい」といわれることも解っていますのであしからず。
加えて確かなこととして自分に対してはだいぶん多目になってきましたよ。

んで「自尊心の無い人なんていない」という発言に対するおいらの答えを書いてみます。
最も自己否定が強かったときには、おいらの主観から見てですが自身の中での自尊心なんて存在していないと感じていました。
今は多少の自尊心を持って生活していますけどね。

ある程度の人間としての活動は基本的人権という権利がありますし、尊厳も与えられています。
自己否定の非常に強い人間は一定のパターンで自殺に行き着きます。
自殺は自己否定の最も強い症状の現われでしょうな。
意思表示の方法で最も効果的な方法でもあります。
人間というのは人の生き死にが掛からないと自分の発言が最も重要なのだという考えを変えません。
まあ人が死んでも関係がないと考える人がいますけどね。

んでここで話ががらり変わりますがいろいろと試行錯誤して物事を考えてきたんですよ。

物事を行なうことというのは基本的に型というかパターンはそれほどたくさんありません。
そして物事を行なう際に最も重要なことは

「自分が関わった後に他の人がどれほど快適になるのか」

ということであってそこに人間のエゴイズムは邪魔でしかありません。
純粋に「物事の目的」を見極めることに努めるようになってからモノの見方というのがかなり変わってきました。
追求すべきは使用する人の快適性であったり、美的感覚を満たすこと、知的好奇心を満たすことです。
使い手や見る側の厳しい目線が必要な訳なんですな。

しかし人を見ていると自分の価値観を追求する余りに他の人と衝突することがあります。
そんな「安い価値観捨てちまえ」とか「主観なんてくそ食らえだ」と考えてしまう自分がいます。
内心ではけっこう過激な事を考えていたりします。
人数の必要な作業ならまだしもおいらの関わっていることの多くは、一人で物事を行なう方が効率よくTotalで対応できることの方が多いんですな。

よっていろいろ考える訳ですよ。

おいらは固定観念に囚われている人間となってはならないと常に感じます。
おいら自身が最も改善することが多い人間ですし、最も劣等な人間だと肝に銘じるように何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も己に自問自答しています。

自分が劣等だということを前提に置いて考えても「客観性」や「状況判断」「臨機応変」「冷静」などで普通の人が対立したときの下降のピークがおいらのMAXのピーク時と擦るぐらいになっていることがあるわけです。
もちろんおいらの方が下なのは間違いなんですけどね~。
冷静さを欠いてしまうと人間というのは「万分の一」の「億分の一」「兆分の一」のパフォーマンスも反映できないこともあります。
でも自分のことを知るように努力し追求しているからこそ自分に最低限出来ることを知ることも出来ている訳です。
また劣等だからこそ他の人よりも努力をしていることもあります。

よって最低限自分に出来ることを自分で認識する事も大切なんだと考えるようになりました。
「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という孫子の言葉って深いんだな~とか今更ながら感じています。
というかより深く解るようになってきたという方が相応しいでしょうね。
「敵」というのは人だけではなく全ての物事に当てはまるでしょう。
そして自分に出来ることを知っておく必要が有ると言うことを教えてくれています。
ある程度の自己の認識はこの国では許されているのですから他の人の外にならない程度で認識していこうと思います。
そうすると大概のことは出来ることと出来ないことに分類されて出来ることを選んで行なうことにより「百戦危う」くはなくなるでしょう。

かくありたいモノです。

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