思うままに....
感じるままに....
JW1.5世の自分が生きてるのを不思議に思う、ひねくれ者の日記です。
扇風機の羽の真ん中をおさえるひねくれ者の日記



少し見方が変わりました................................

おいらの将来は死ぬことが待っています。
確実においらは生き長らえることはできないと確信しています。
しかし安心したことがあります。
Mind Darkness No.65は「人の死」を嘆いた記事でした。
ところが聖書的な見解によりおいらの気持ちに調整が加えられました。
「将来の希望」ということに関しての見解の調整なのですがね。
おいらは「自分の命に関して」だけに視点を置いていました。
これが「多くの人」という視点になると凄く楽になったんですよね。
概ねで嘆く理由が無くなったということです。

おいら個人としては死ぬことは明白で揺るぎようもないでしょう。
よって現在の不条理を嘆いてたのですがね。
ちゃんと裁かれるということを知り、それが確実に訪れるということは確信しています。
これ以上何を求めればいいのかと思えてきます。

でも少し納得できないことが幾つかあります。
現在でも報われねばならない人間がたくさんいます。
こういった方たちが「なぜ報われないのか」という疑問がついて回ります。
人間というのは当然ながらですが、報われないことの方が多いのは明白です。
しかし「認めて貰いたい」と常に心の底で抱いて生きているはずです。

「自己犠牲」という言葉があります。

この定義は「自分を犠牲にして他の人のために物事を行う。」というものですね。
真の意味での「自己犠牲」が実践できている人間がどれほど居るでしょうか。
おいらが知っている人間の中ではこれを実践できているのは両手で足りるぐらいです。
「報い」を見つめてならばいくらでも居ますよ。
将来に対する希望を持って「将来報われるのだから」という計算をしながら生きている人はたくさんいます。
でも人間の繋がりというのはそのような計算の入り込めない関係だと思うんですよね。

計算をして生きている人間というのは見ているといらいらしてくるんですよね。

自分の益を最優先にして生きている人間をおいらは評価することはないでしょう。
自分のことにしか関心がない人間は自己中心的にしか生きていけません。
自己中心的な人間はおいらとは相容れないでしょう。
そのような人間とは親しくなりたくはありませんし、近づいて欲しくもありません。
確かにおいらも計算している人間ですからな。

・努力している人
・過失もないのに苦しんでいる人

これらの人をおいらは評価していきたいと思っています。
当然ですよね。
こういった人たちは報われねばならないでしょう。
真の意味での「自己犠牲」というのは

過去も将来もなく本当にその人のことを思って行動すること

だとおいらは思うんですよ。
そして「行動したことが相手に特定されない」ということはさらに美しいと思えます。
特定するというのは相手に恩を売るような行為だととられることもあるからですな。
此方の動機がいくら良くても懐疑的に見る人が絶対にいるからです。
また根本的な部分である動機を疑う人もいるでしょう。
恩着せがましいと思うんですよね。
努力もせず嫌なことから逃げるような人間も嫌いです。

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