富田林を豊かにする会 代表 武藤宏 ~我が街、豊かに 

地方の繁栄、豊かさの実感
「住みやすい街」から「豊かな楽しい街」を目指して
生活を楽しみながら、心構えと精進の日々

子供の教育

2018-04-24 14:01:58 | 日記
今日、「孝」「忠」という言葉は死語になろうとしているそうです。
我々中高年世代にとっては、当たり前に身に付けた言葉です。
どこで教えられたか覚えていないほど自然に身についていた言葉のように思うのですが、今や学校では教えるのは難しく、道徳の授業でも教えることが難しいのだそうです。
その理由の一つとして、「孝」や「忠」の思想が先の戦争を引き起こしたとする戦後の風潮から先生方が教えにくくなっている、からと言われています。

「孝」を重んじる「儒教」を日本に広めたのは「中江藤樹」です。
「子は、両親に事えるべし」
父に対しては「敬」、母に対しては「愛」をもって接すること
主君に対しては「忠」の道で事えることが「孝」の発展形態だと教えています。

現代、シングルマザーの子育て、核家族化、少子化などが増え、夫婦や親子の絆にも変化が生まれていることは事実ですが、本当に「孝」の精神なくして社会が成り立つのか疑問です。「孝」を忘れた自己本位の生き方を選ぶなら、社会も国家も衰退の道をたどり、やがて他国からも蔑まれ亡国の民となり果てる事になるのではないでしょうか?
「教育の無償化」を主張する政党や国のリーダー的な立場の方がおられますが、親が自分の子を責任をもって育てない社会が幸福な社会とは思えません。
教育費は国が負担すべき、との考えは志の喪失と親子の絆の希薄しか生みません。
親が子の将来を願って子を育てることは幸福であり人の道ではないでしょうか。
親の意を汲み志を立てて成長した子は成人して、無償の愛で自分を育ててくれた親に感謝することでしょう。これもまた人の道です。
この感謝の繰り返しが人間の歴史でもあり優れた国の歴史でもあると思います。

   

   

歴史の偉人が偉人として名を留め崇められるのは、それ相応の理由があります。

その偉人の名が教科書から消されていくのは、なんとも納得のいかない事です。

以下は、2018年3月の産経新聞の記事です。

用語を選定した方は、単なる歴史用語として捉えているようですが、人名は用語としてではなく功績によってこそ評価されるべきでしょう。
「トラは死して皮を残し、人は死して名を遺す」と言います。用語の暗記のためではなく、名を遺した功績をこそ教科書で教えるべきです。
時代は変わろうと、名を遺した人の偉大さに変わりはなく、死してなお人に感動を与えることができます。
決して忘れ去るべきではない、と信じます。
歴史を重んじ、大切にする国は永らえ、依るべき歴史を持たない国は滅び去るしかないのではないでしょうか。

用語選定基準に携わる方の言葉が虚ろに聞こえるのですが、国家百年の計を担う一大責任を感じてもっとしっかりして欲しいものです。

=====================産経新聞の記事
【歴史用語 選定基準を修正】~「龍馬」「信玄」削除で批判集中

「坂本龍馬」を外し「従軍慰安婦」を明記するなどした高校歴史用語精選案について、作成した民間団体「高大連携歴史教育研究会」(会長・油井大三郎東大名誉教授)が、外部からの批判を踏まえて用語の選定基準を修正したことが31日、分かった。人物用語は「一般によく知られた人物などを厳選して取り上げる」とし、評価が分かれる近現代史の用語についても偏った教育にならないよう注意を促す項目を追加した。近く団体のホームページに掲載する。
 精選案の用語選定を統括した副会長の桃木至朗大阪大教授は産経新聞の取材に対し、すでに公表している用語リストの改定に「専門家から多数の意見が寄せられている」として含みを持たせたが、今後の方針は明示しなかった。
 同団体は暗記偏重から歴史的思考力の育成を目指し平成27年に発足。29年11月に現行教科書の約半分となる1600語程度の精選案を公表した。今年3月末までに最終案を公表し、教科書会社や大学入試関係者に提言するとしていた。
 ただ、坂本龍馬、武田信玄といった有名な人物が数多く外れたことに批判が集まったほか、現行教科書で少数表記である「従軍慰安婦」「南京大虐殺」などが入り、物議も醸した。この団体には延べ約40人の教科書執筆者が含まれ、一部の会員で構成された選定グループにも複数の教科書執筆者が入っていたため、教科書編集や大学入試への影響も指摘されていた。
 団体は精選案を公表した昨年11月から今年2月末にアンケートを実施。その結果、「歴史用語の精選に一定の理解が得られた」としたが、選定基準には賛否が分かれ、修正した。高校現場からも内容の再検討を求める声が出ていた。
 選定基準は、大半の教科書に掲載され、時代の流れが分かるような概念を中心に選び、文化史用語は必要最低限にするというもの。修正後は「国民意識の涵養などを踏まえ、よく知られた人物・事件を厳選する」「政治的・外交的に理解が分かれる事項は多面的な理解・考察ができるように取り上げる」を追加した。


高大連携歴史教育研究会が当初の 精選案で削っていた主な人名
「日本史」
蘇我馬子、楠木正成、上杉謙信、武田信玄、天草四郎時貞、中江藤樹、高野長英、高杉晋作、坂本龍馬、吉田松陰
「世界史」
ハンニバル、クレオパトラ、ガリレオ・ガリレイ、マリー・アントワネット、ロベスピエール、メッテルニヒ、ドストエフスキー


教育研、偏向も是正
「歴史用語精選案」
歴史授業での暗記偏重の克服を目指す高大連携歴史教育研究会が昨年11月、歴史的思考力育成型科目への転換を図るため、「教科書本文に載せ、入試でも知識として問う基礎用語」として、日本史、世界史とも現行の半分となる約1600語を選択し公表した。これら以外の用語については、教科書のコラムなどで「発展用語」として収録することを否定していない。

公共施設管理の実態

2018-04-22 00:19:38 | 日記
日本の公共施設は全般的に費用面は公表されていますが、それに見合う収入はあまり明らかにされていません。
経済成長が続き、右肩上がりの時代ならまだしも、財政がひっ迫しているなら、収支を明らかにする必要があります。
感覚的に多くの市民に利用されているから、多くの税金を投入して良いとは言えないのが現状です。
無料だから安いから利用する市民を集めても、結果的に赤字を出していれば少数のために多くの市民に過度の負担を強いることになります。
市財政が破綻すれば利用されていた施設もすべて閉館を余儀なくされます。
公共施設、民間施設を問わず、赤字経営は淘汰の対象になることは必至と言わざるを得ません。

高度成長時代に建設された多くの施設は、すでに半世紀経ち老朽化し、大規模修理や修繕または立て直しが待ったなしになりました。
にもかかわらず、無駄を排除しどこに資金を投入するかを判断する施設管理(ファシリティーマネジメント)情報に欠け、「必要な費用はやむを得ない」的な発想から脱却することができていないようです。



上のグラフをご覧ください。
富田林市の公共施設の年間総費用を施設ごとに比較したものです。
利用形態が違うので単純な比較検討は行えないものの、短期的にも長期的にも費用の過少過多を評価することは不可能です。

例えば、
「すばるホール」や「ケアパル」の費用が他と比較してかなり多いのは相当な収益で市財政に貢献しているからなのか?
この費用を減らして小中学校の施設や設備改善の費用に充てることはできないのか?
考えてみてください。

収支が分からなければ、検討は難しいと思いませんか?

参考記事------------------------------------------------------------------------
★ 町立体育館の廃止と新たな利用方法の決定について( http://goo.gl/lKBIp )
埼玉県宮代町がこの1月25日に発表したリリースによりますと、町立体育館を、年額12万円で、近所の
学校法人に貸し出すとのこと。このことにより、これまで町負担であった維持管理費 年額900万円が、
学校法人負担となります。また、学校利用の空き時間は、一般住民にも貸し出されるとのことです。
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ちなみに、この決断をした埼玉県宮代町ですが、ある日突然、この決断に至ったわけではないようです。
2010年に東洋大学PPP研究センター 宮代調査チームが『埼玉県宮代町公共施設・インフラの更新の
あり方の研究報告書』( http://goo.gl/dIZ8o )を公開しており、その後、2011年には、宮代町公共施設
マネージメント計画と公共施設再編第1期計画を策定して、その流れの中で、今回の決定と相成った模様で
す。この計画では、年間7,000万円の施設維持管理経費の削減を5年間の目標としています。(宮代町 
公共施設再編第1期計画 http://goo.gl/xI35T )
この東洋大学PPP研究センターの研究報告書によりますと、宮代町の人口は、2010年に33,440
人で、25年後の2035年には、22%減の26,506人になると予測されてるそうです。もちろん、
高齢化の進行もより深刻化する見込みでしょう。人口規模や人口構成はもちろん、時代の移り変わりで、必
要な施設の規模や種類、使い方まで変わっていくのは当然であり、それにあわせて、公共施設のあり方を見
直す、至極、真っ当な決断でしょう。また、人口が減ることで、税収の減少も予測され、より効率的な施設
運営が求められる時代となったとも言えます。

南河内の歴史

2018-04-12 12:12:34 | 日記
 大阪府の南東、富田林市は、大和川支流の石川左岸の河岸段丘で、東に二上・葛城・金剛連山、南を和泉山脈がゆるやかに囲む、河内平野の南部に位置します。


左の山が「葛城山」、右の山が「金剛山」

 いまから約5000年前の縄文時代前期、河内平野北部には入り海(河内湾)が広がっていました。富田林は、この入り海の南側。市域の中央を流れる石川の河原からは、アケボノ象足跡の化石や太古植物の化石などが発見されています。縄文前期の錦織遺跡など多くの遺跡が点在し、この地に有史以前から暮らしの営みがあったことを証明しています。

 

 6世紀後半、難波と大和飛鳥を結ぶ日本最古の宮道・竹内街道が開かれました。難波宮から住吉、堺を経て、南河内の古市、太子を通り、大和に入る沿道には、大陸からの高度な土木技術や産業がもたらされ、古代日本文化を形づくる基礎になりました。現在も5世紀頃の応神陵をはじめとする巨大古墳群(羽曳野市古市)や、聖徳太子ゆかりの叡福寺(太子町)など古代史ファン必見の史蹟が数多く残っています。大和飛鳥王朝を支えた物部氏、大伴氏らは、この地を基盤とする古代豪族でした。




     新堂廃寺跡          オガンジ池瓦窯跡         お亀石古墳


     応神天皇領模型


     応神天皇領模型

 

 平安時代末期、武士が勢力を持ち始める頃、源氏三代は、やはりこの地を基盤に勢力を伸ばしました。
 清和源氏の中でも河内源氏、頼信(よりのぶ)は河内国司に任ぜられて、河内国石川郡壺井に屋敷を構えました。その後、頼信の子である頼義(よりよし)と孫の義家(よしいえ)の三代が壺井本拠地としたことから「河内源氏の発祥(はっしょう)の地」と言われるようになりました。 頼義と義家は、前九年の役や後三年の役で活躍し、特に義家は八幡太郎(はちまんたろう)と呼ばれて東国に地盤を広げ、武家の棟梁としての地位を確立しました。

 
源氏三代を祀る「坪井八幡宮」
  
頼信の墓             頼義の墓            義家の墓

 平氏が滅び、鎌倉時代から南北朝にかけて、南河内は有力武士や土豪が家督、土地の権限を奪い合う主戦場になりました。千早城(現千早赤阪村)を根城に活躍した楠木正成は、南河内を代表する武将一人でした。



戦乱の世、人々は仏にすがり、融通念仏(念仏が功徳を広げ、それが融通しあって御利益になるという信仰)を唱えはじめます。本願寺八世を継いだ蓮如(1415~1499)が摂津(高槻市富田、枚方市光善寺)から河内地方(八尾市久宝寺)へ布教にやってくるのは応仁の乱の最中のこと。本願寺・一向宗門徒たちは、争いのない、平和な仏の国をこの世に建設しようとしました。


宗教自治都市”じないまち”中心「興正寺別院」

 阿弥陀仏の名号を本尊とする極楽浄土の町。時の領主の支配や武士階級の抗争に左右されない、門徒衆や信者らが生活をともにする町。“宗教自治都市”「じないまち」は、こうして産声を上げたのです。(文章は富田林市教育委員会文化財課発行「じないまち探究誌」からの引用です)

奇跡の商店街 ~宮崎県日南市の油津商店街

2018-04-11 20:40:05 | 日記

地方創生が叫ばれているが、その鍵を握るのが、各地の「商店街再生」だ。地域の中心街が寂れていながら、全体が栄えることはあり得ないためだ。

しかし、「店舗の集合体」を再建することは、一つの企業を復活させたり、まったく新しい街を開発したりするよりも、難易度が高い。全国でも、各自治体は苦戦を強いられている。

そんな中、数少ない成功例として有名な事例の一つが、宮崎県日南市の油津商店街だ。

「猫さえ通らない」と地元住民から揶揄され、あまりの人通りの少なさに子供が野球場代わりにしていたシャッター街が、数年後、IT企業が10社もひしめく街に変貌した。

本誌5月号特集「人口が減っても客は増える シャッター街、赤字企業のV字回復物語」では、同商店街の復活物語を掲載している。

本欄では、その「奇跡の風景」を、写真と共にレポートする。


◎のどかな駅ホームと「カープ色」の駅舎

まず強調したいのは、立地の「辺ぴさ」だ。決して地域を貶めたいわけではなく、それだけ、これから紹介する風景が奇跡的であり、全国の希望になり得るということだ。

宮崎空港から、1~2両編成のJR日南線に揺られて、2時間――。九州南東の海岸近くにある油津駅から、徒歩約5分のところに、油津商店街は存在する。

駅ホームの、のどかな風景をご覧頂きたい。


こののどかなホームから、線路の上を歩いて駅舎に向かい、切符を係員に渡す。そして駅舎を出て、ふと振り返って、驚いた。

駅舎は真っ赤に塗られ、「カープ油津駅」という文字と、日本プロ野球・広島東洋カープのマスコット「スラィリー」の絵が描かれているのだ(下写真)。


この油津にある球場が、広島カープのキャンプ場となっている。油津商店街は、それを"資産"として最大限に活用した。カープの試合を応援する、パブリックビューイングを開催するなどして、地域住民が交流する場を設けた。もちろん、域外にPRする話題性の創出にも一役買っている。


◎静かな路地と、アーケードから響く洋楽

駅前通りから、やや細い路地に曲がり、しばらく歩く。その先に、油津商店街のアーケードが見えてくる(下写真)。


この路地は、平日の昼間ということもあり、人通りもなく、静かだった。しかし、アーケードに近づくと、なんと、都内の若者向け洋服店などに流れている、ハイテンポな洋楽が聞こえてくる。

住宅街の中に、突然、「若い街」が出現するのだ。


◎「懐かしさ」と「新しさ」が共存するカフェ

先ほどの駅ホームとのギャップに驚きながら進むと、入り口付近で、スタイリッシュなカフェが目に入って来た(下写真)。


このカフェの名前は「ABURATSU COFFEE」。詳細の説明は本誌記事に譲るが、商店街の復活物語において、この店が心理的にも経営的にも、重要な役割を果たした。

このカフェは、昔から商店街にあった喫茶店を、リノベーション(改装)している。レンガづくりの外観や、「麦藁帽子」という店名が、当時の面影を残す。「ああ、こんな喫茶店、うちの近くにもあった」と感じる読者も多いのではないだろうか。

店内に入る。すると、都会のカフェさながらのカウンターが目に飛び込んでくる(下写真)。


メニューも、「パンケーキセット」など、若者好みのものが多い。記者の主観だが、注文した「ハニーミルクラテ」は都内のカフェで飲むよりも、濃厚でおいしかった。

客席に目を転じる。するとそこには、カウンターとは対照的なレトロな風景が広がっていた。木の仕切りと、カラフルな照明は、昔のままのものを使っているという(下写真)。


席について、さらに驚く。なんとコンセント、Wi-Fi完備なのだ。記者はここでパソコンを開き、取材内容をまとめていたが、非常に過ごしやすかった。

あたりを見回すと、30代くらいのサラリーマンがパソコンを開いて仕事をしている。さらに、子連れママ友グループ、比較的高齢の女性グループがそれぞれお茶会をしていた。

この世代を超えた客層は、「ABURATSU COFFEE」、そして油津商店街が成功した理由を象徴している。

商店街再生の中心メンバーは店舗改装に先立ち、地域住民を集めて「麦藁帽子の思い出を語る会」というものを開催した。そこでは、「主人と初めてデートした場所」といった人々の記憶が掘り起こされた。改装において「残すべき面影」が明確になったと同時に、住民の商店街や喫茶店への愛着を取り戻すきっかけとなった。

残すべき面影を残しつつ、その他の部分は、若者の好みや意見をふんだんに取り入れて、思い切って改装した。正面をぶち抜いて、ほぼ全面をガラス張りしたのも、その一環だ。

街に対する住民の心理的な情感を受け継ぎながらも、新しいものを創造していく――。そんな姿勢が見て取れる。


◎お洒落な店々

カフェのすぐ隣には、「和モダン」な豆腐屋がある。この店は、呉服屋の跡地に入ったという(下写真)。


商店街再生の中心メンバーは、既存の店を誘致するのではなく、出店を志している料理人を口説いて、商店街で「起業」をさせた。オーナー夫婦の店舗経営を支えるのは、地元出身の30代の人たち。うち2人は「Uターン」してきた。

さらにアーケードを進むと、スイーツなどを売る、お洒落なコンテナ店舗が並ぶ(下写真)。


ここはかつて、空き地になっていた。

店がコンテナなのは、少ない人数や経営規模でも、維持できる店舗とするためだ。人材確保が難しい地方ならではの工夫といえる。


◎中学生が"たまる"オープンスペース

こうしたお洒落な店々の反対側には、「油津yotten」という公民館がある。同じく詳細は本誌記事に譲るが、この公民館も商店街再生において、大きな役割を担った(下写真)。


公民館の中に設置された、「油津カープ館」では、カープの歴史に関する写真が展示され、関連グッズなども売られていた。

内装も、ガラス張りで、よく光が入るのが印象的だ(下写真)。


この土地はかつて、スーパーだったという。商店街の賑わいの中心だったスーパーが閉店し、巨大な廃墟になったことで、街の暗さは一層増したのだとか。

本誌記事で取材をした黒田泰裕・油津応援団代表取締役は、この公民館建設の資金集めに奔走した思い出を語ってくれた。

この公民館の隣には、またもや都会的な雰囲気のオープンスペースがある(下写真)。


写真撮影時は少しタイミングを逸したが、記者が最初に来た時には、中学生と見られる学生が大勢"たまって"いた。そこで、「こないだ、あいつさぁ!」などと話している風景は、とうてい、九州南東海岸近くの商店街とは思えなかった。

最初、このスペースには屋根があったそうだが、解体したという。日の光が入りやすい設計で、商店街全体の印象も明るくする意図だったとか。こうした印象の違いが、意外と集客を左右する。


◎IT企業と子供たちの声

そして、油津商店街の奇跡を象徴するのが、IT企業の誘致だ。最初に入って来たのが、東京にあるポート株式会社のサテライトオフィスだった(下写真)。


ここは昔、ブティック跡の店舗だった。このオフィスのデザインも、「日経ニューオフィス賞」「グッドデザイン賞」を受賞している。

IT企業進出の一つの要因として、行政スピードの早さがあった。

ある企業は当初、人口の少ない日南市へのオフィス展開を迷っていた。しかし、この懸念に対する役所への問い合わせに対して、「答えは(役所だから)半年後くらいに返って来るだろう」と思っていたにも関わらず、2週間で返ってきたので、驚いたという。それが、大きな決め手になったとか。

そしてこのIT企業の正面には、保育施設があった。ここから商店街には、常時、子供たちの声が響いている。

夕方になると、上記のIT企業などに勤めていた若いママたちが、子供を迎えにくる。商店街には、子連れで溢れる。

先述の黒田氏は「あんな風景、昔はなかった」と、嬉しそうに語ってくれた。


ここが、すれ違う人の多くは30代という、驚くほど若い街だ。

油津商店街の再生は、「商店街のためだけのもの」ではなかったのだとか。日南市全体の少子高齢化に対抗すべく、若者を集め、地域を支える人材を輩出するという「大義」があった。それがまた、多くの協力者を呼んだのだという。

たった200メートルの中に、地方創生へのヒントが、ぎっしりと詰め込まれている。(馬場光太郎)

(「TheLibertyWeb」誌5月号より引用)