先に記した、国語便覧からピックアップしたものの一つである。表題作は芥川賞受賞作であるし、著者も名の知れた作家であるのに、長らく私の食指から漏れ、選択の濾紙にもかからなかった。そういう漏れを埋めようというのが今回のピックアップである。
以下、寸感を。
『忍ぶ川』
戦後の作品にしては意外なほど古い雰囲気を持った小説である。描かれる対象もそうだし、描き方も堅実な同人雑誌作家のようで、いまどきの芥川賞とはまったく評価するポイントが違っていたのだなと思う。
全般に、整って綺麗な文体で、ごく丁寧に書かれているが、話がとんとん拍子な感じで、『志乃』の人物が見えにくい。哀れな、儚い感じを表現したのか、そもそも女の自我は眼中になかったのか、作中における『志乃』は、とても料亭で苦労した女とは思えぬほど素直で可憐である。そこにややもの足りなさを感じたのは否めない。
『初夜』
清々しい作風に胸をうたれた。
成長や脱皮の物語はいろいろあるけれど、こういう形があったかと驚いた。
著者の生い立ちに関係するのかどうか、そのへんはわからないが、父の死とともに某かと訣別し、男として立っていこうという決意や、妻とのやりとりが静かな感動を呼ぶ。
『帰郷』
表題作や『初夜』に続く作品である。物書きを目指すらしき語り手の貧窮する生活を描いている。身重の妻を抱えながら収入なく、都落ちするのであるが、不思議と暗さがない。淡々として、どこかユーモアや余裕がある。
私小説風な作品だが、乾いた文体が快く、大した展開もない日常が描かれるだけなのに、つい読みふけってしまう。内容的には破滅的なのに、不思議な書き手である。
『團欒』
これもまた続編だが、ですます調で家庭内のあれこれが描かれる。読み終えて冒頭を読み返すと、見事な導入だったなと感心した。
《その部屋は、妻がみつけたのです。》
このひとことだけで作品の雰囲気や方向性を読む側は受け入れる態勢になる。久しぶりに、小説の節々の大切さを痛感させられた。
ですます調で静かに語られる生活は『帰郷』までのものより成熟しているように見えて、実は危機をそこかしこにはらんでいる。不安や後悔をも。
しかしそれらに悲愴ぶることもなく淡々としているのは安定して丁寧な文体のおかげだろうか。
《わたしたちは、何度でも、いま、ここから、出直すほかはないのです。》
おそらくこうした諦観は、戦後の日本人一般を支えたメンタルだったろう。いま読めば不思議な雰囲気なこれらも、時代に必要とされ、また時代が要請した作品であったのだろう。
『恥の譜』
一転して、自省的な文体で綴られる私小説風の作品である。
父の危篤に伴う帰郷を描き、その死に喚起される語り手の内面が静かに語られる。『初夜』と同時期を描いていながら、その切り込み方には異なる角度が与えられている。一作にはまとめきれぬ題材であろうが、同じ事件がこうも違う面持ちで表現されるのは興味深い。
日本の近代文学の正統を伝えるかのような作風であるけれど、そういった作品から最近遠ざかっていた私には新鮮だった。
『幻燈畫集』
こちらは打って変わって幼少期を描いたもの。字のとおり幻灯が巡るように、淡い思い出を丹念に拾い集めて再構成している作品にみえる。
単調に、あるいは感傷的になりがちなこの手の作柄なのに、面白くすいすいと読めたのは、いわばこの連作の謎を解きほぐす鍵が伏線のように散らばっているからだろう。
とはいっても、これ単体でも読ませる作品である。
『驢馬』
この短編集中、唯一の番外編である。そして唯一の私小説風でない小説であり、私としては最も惹かれたのがこれだった。
同一人物の作とは思えないほど、雰囲気や執着する方向性が異なる。なんらかの取材対象があったのかもしれないが、描き方の集中力、文体のキレ、行間への響き、見事だと思う。私はつんのめるように次々と頁を繰っていた。
戦中派のにおいがする。しかし、終盤にいたってテーマが太り過ぎ、いろいろ詰めすぎたきらいは否定しない。戦中派を虚構する無理が祟ったようにみえた。それを含めても良かった。単に私の好みに過ぎないのかもしれないが、『忍ぶ川』などよりよほど読まれるべき作品だと思う。
梅崎春男『幻化』、芥川龍之介『河童』などを彷彿とさせ、その視座の先には著者さえ意図しなかったものが照射されそうなのである。
ここまで書いて、本書の解説に目を通した。意外に『驢馬』は評価されておらず、《だがぼくはストレートに書いた『十五歳の周囲』(新潮同人雑誌賞)の方により感動させられる。》とあった。俄然、私は三浦哲郎のデビュー作『十五歳の周囲』を手にしたいと思った。
