よい子の読書感想文 

読書感想文903

『1973年のピンボール』(村上春樹 講談社文庫)

 さほど読みたいとは思わないが、先日、『風の歌を聴け』を読んだ流れで、やや義務感みたいなものもあって再読した。この年齢になって感じ方は随分と変わっており、新たな気づきもあったので、それを確かめていこうという着眼で読み進めた。
 これは一つの読み方に過ぎないのではあるが、70年の安保闘争による分断、社会復帰していく者(僕)とドロップアウトしていく者(鼠)の後日談として。
 さて、私は『風の歌を聴け』を読み、“これを純文学と呼べるのだろうか”と躓いたが、それはかつて前期三部作だけは“純文学”であろうと思い込んでいた自分の感覚への違和感でもあった。
 村上春樹作品をエンタメっぽく感じさせるのは、翻訳臭さとファンタジー的な小技への依拠である。だが、本作を再読してみて、少し考えを改めた。ファンタジー的なものは物語を構成する上での必要な要素なのだと。
 たとえばある日突然「僕」の両隣に寝ていた双子。荒唐無稽な設定ではあるが、二人との会話によって、「僕」は語らせられ、二人の提案によって、「僕」はクルマを借りて貯水池に行き、配電盤を水葬する。
 もしもこれが、「僕」ひとりでの独り言や、単独での配電盤水葬劇だったらどうか。感傷的でイイ気な男の臭い物語に堕するのだ。したがって話をシックにまとめるためには、双子というファンタジーが必要な材料だったといえる。
 配電盤もそうだ。いきなり電気工事の人が訪れ、配電盤の在りかを捜索し、新しいものと換えていく。散文的に描けば、配電盤はマルクスの「資本論」であったり、党の綱領であったり、1969年に沸騰した社会変革の夢であったろう。
 しかしそれらをリアリズムの手法で描けば、かえって文学から遠ざかる、そういう世相だったのであろう。
 わざわざ、1960年を「ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。」と書くのは、気取りではないのだろう。そのようなヴェールを纏わなければ、描けないものがあったのだ。
 そういう解釈を経て総括すると、春樹作品はよくできたスポンジのようなものに感じる。
 社会復帰していく当時の読者たちの様々な物語が、そのスポンジに吸収され、あたかもよくできた純文学作品の体を成すわけである。曖昧さとファンタジーさは、時代が変わっても読む者の負託に応える。誰しも、何かと決別していくのであるから。
 したがって、散りばめられた伏線にいちいち個別の回答は与えないし、世界を解釈もしない。「鼠」の苦悩も、曰くありげにその周縁をもやもやと書くだけだ。
 ピンボールの台とすら話が

できる「僕」だから、双子もまた、ただの人形だったのかもしれない。
 
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