
確か、読むのは三度目で、前回は14年前、震災の前年だった。
災前と災後では、さまざまなことが変わった気がする。世の中もだし、自分自身も、青年から中年となった。職場でも、いわゆるぺーぺーだったのが、いまは下っぱながら幹部の立場だ。
その変化が、文学を鑑賞する眼に影響を与えるのは自然なことだ。想像力を失ったとか、感性が鈍くなったと嘆いても仕方がない。読み方の変化を楽しむしかなかろうと思っている。
で、どんな変化を今回は感じたのか、以前の感想文をひもといてみた。
二十代の私は、面白く、夢中で読んだ。三十代のときは、ややドライな視点で、七十年代の若者の傾向なんかを念頭に読んだ。春樹作品をそれなりに読んだ後だったので、その癖が、少しずつ鼻につき始めていたのだろう。
そして今回は、前期三部作を通読する中で、本作の、一見すると気づきにくい時代性を垣間見ることができた。(それについては下巻の感想で言及しよう)
また、多くの作品で首をひねってきたファンタジー性の意義について、私なりの位置付けをすることができた。
たとえば、「ピンボール」に登場する双子の女の子がそうだったように、本作では美しい耳を持つ21歳のモデル兼コールガールが旅の道連れとして登場する。「ああ、やはりか」と再認識したのは、このガールフレンドも、物語を進める上でのマテリアルに過ぎないのだ。彼女が小説における神の視点みたいなものを主人公に提供し、示唆を与え、冒険が組み立てられていく。当然、彼女は記号のようなものであり、耳の美しさなんて、なんの伏線ですらない。顔さえ思い浮かばない。素性も知れない。必要ないのだ。マテリアルに過ぎないのだから。おせっかいな読者は、勝手にその顔をイメージし、想像を膨らませるだろう。
ということで、今回は小説の技術上の手法と、時代性=政治性に着目させられた。後者については、ある意味感心した部分もあるので、丁寧に考えてみたい。
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