戦争が論じられる際、ある種の教典のごとく引用され、また現代の戦略・戦術のテキストに多大な影響を与えている本書は、私が長年にわたって『読みたい』と願い続けたものである。
それがいままで叶えられなかったのは、本書の持つ難解さ、いってしまえばつまらなさによる挫折が要因であった。十年程前にも、古本屋で上巻を購い、三分の一も読めずに投げてしまったのだった。
今回は、尊敬する上司が是非とも読んでほしいとおっしゃるので、必ず通読する覚悟で一挙に上・中・下を入手したが、やはり一年もの積ん読を経ての読書であった。
スムーズには読み進められない。難解さとか面白くないというのも要因だが、そもそも『戦争論』は戦争という事象を、哲学的に俯瞰しながら、一方で技術的に論じていて、哲学書の要素に戦術テクストの性格が織り交ぜまぜられている体裁であり、一筋縄では読めないのである。集中して咀嚼、消化しながらでないと、読者は迷子になりかねない。
上巻は第一篇『戦争の本性について』、第二篇『戦争の理論について』、第三篇『戦略一般について』を収録する。十年前よりも幾分かは勉強した甲斐があったのか、なるほどなるほどと唸りながら読める部分は少なくなかった。
たとえば“政治”というフィルターによる論述。
【戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない(P14)】
【政治的目的は、軍事的行動によって達成されねばならぬ目標を設定するための尺度であるばかりでなく、また戦争における力の使用を規定するための尺度でもある(P42)】
【戦争は政治的行為であるばかりでなく、政治の道具であり、彼我両国のあいだの政治的交渉の継続であり、政治におけるとは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。(中略)政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段に過ぎない(P58)】
【およそ戦争は、盲目的な激情に基づく行為ではない、戦争を支配するのは政治的目的である。それだから政治的目的の価値が、この目的を達成するために必要な犠牲の量を決定せねばならない(P67)】
【消費と敵の政治的目的とが釣り合わなくなり、敵は戦争を放棄せざるを得なくなるのである(P73)】
【ところで戦争をなにかほかの術と比較しようとするならば、それには貿易が好適であろう、貿易も人間同士の利害関係並びに活動の衝突だからである。しかしそれよりも遥かに戦争に近いのは政治である。政治はこれまた一種の大規模な貿易と見なされてよい(P189)】
おそらく、若いときはこのシビアすぎる視点が許容し難かったのだろう。『君主論』にも見られるこうした冷静・冷徹さはしかし、戦争を考える上で必要な条件なのだといまは納得できる。
政治や歴史を外野から、或いは後世になって論じるのは、それらが“物語”として扱われる地平においては、それこそ“激情に基づく”感情で、好きに解釈すれば良かろう。しかし戦争をもし現在進行形で扱う立場にあるのであれば、その者は自らのアイデンティティ云々ではなく、まして感情の赴くところでなく、冷徹な“目的”に基づかねばならないはずだ。
こうした視座で戦史を振り返ると、いままで思いもよらなかった発見がありそうである。
しかし、陳腐化している論述も散見された。例えば以下の一節。
【現代の文明国民は、みだりに捕虜を処刑しないし、また敵の都市や国土を破壊しないのが通例てある。その理由は、知性が文明国民の行う戦争に介入して、本能のかかる粗野な発現よりも、むしろ知性のほうが強力を行使するにいっそう有効な手段であることを教えたからである(P32)】
ヨーロッパ単体で見ればそうだったのかもしれない。クラウゼヴィッツがもしも20世紀の戦争を目撃したら、どう表現するのだろうか。その希望的観測は、残念ながらおめでたいのである。
また先に引用した政治的目的というのも、20世紀以降はあやしい。政治よりは経済に規定されがちな戦争、という観点から。とはいえ、時代性の制約を受けつつ未だに読み継がれる『戦争論』というのは、戦争を論じる上での或るボーダーラインとして生きているように感じる。批判する上での足がかりとして、尺度として、拠るべき生きた古典として、まるで数学者が必ず弁えておくべき定理のようにして。
