おそらく十代か二十歳のころに読んで以来だ。避暑地、サナトリウムでの、少し浮き世離れした可憐な作風はずっと印象に残っていて、「また読もう」と思い続けていた。
しかしそれはちょうど、母校を懐かしくは思いながら、気恥ずかしい気がして寄りつけない気持ちに似ている。再読はこんなに遅れてしまった。
多感なとき、私がこの本をひもといて感じた憧れ、またこの本を読んだ記憶じたいを、いまさら覆すのが不安だったのかもしれない……が、
不安? なにを知ったような口をきいているんだ。と、堀辰雄研究者やコアなファンに怒られそうだなと、読後のいまは思っている。
特に婚約者の死後の日々を綴った『風立ちぬ』。感傷は濾過されて透き通っていく。晩秋の晴れた日の空気が肌をさすときに感じる厳しさと晴れやかさのように。その傍らにときどき現れる“節子”の面影……
静けさ。涼やかさ。この乾いた感じ。著者は“わたし”を突き放し、厳しく作品化を果たしている。この文体を飲み込み、咀嚼し、吸収してしまいたい。そう思わせるのは堀辰雄、原民喜くらいのものである。ぜひ未読のものも手にしたい。
