寺山修司は好きだが、軽い読み物的なものもあるのは承知していたので、期待せずに手にした。しかし冒頭の一節に私は早くも寺山節の虜になっていた。
幸福という言葉を口にするのは、何か気恥ずかしいものがある。それは、青春前期の少年少女の用語であって、人生が始まってしまってからは、もはや口にするべきものではないと思われてきたからである。だが、トーマス・マンの「政治を軽蔑するものは、軽蔑に価する政治しか持つことが出来ない」というアフォリズムは、幸福の場合にもあてはまる。幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福ということばを軽蔑している私たち自身にほかならないのである。
(『マッチ箱の中のロビンソンクルーソー』)
毎度関心するのは引用の適格さだ。この文脈において最大の効果、言外への響きを与えるテキストは何か。それを本能的に嗅ぎ分ける才能。歌人に留まらず、劇作家、演出家までこなした核には、こうした引用、コラージュをも自らの中に取り入れて作品化してしまう特異な才能があったのだと思う。
しかし一方で、時に論及の文体は妙に浮ついてくるなと気づいた。『書を捨てよ』と言う同じ口で、まるで文献学者のように、言い立てるロジックの多くは書物によっていて、それが地に足がついていない風にさえ思えて、やや読む気持ちに集中力を失いそうになった。
小市民的幸福、家庭への幸福といった名の反幸福的停滞へ、覚醒の一石を投じることは「一般的理性」の判断の結果ではなく、劇的な想像力、諸関係へのあくなき好奇心であるというのが私の論拠である。(中略)同時に「一般的理性」などというものの存在しない時代にあって私の要求する世界状態というのは、「理性の偶然性」との絶えざる緊張関係をはらんでゆくということなのである。(『おさらばの周辺部』)
まだ社会変革を目指す人々が少なからずいて、“想像力”が力を持っていた時代。寺山修司は『天井桟敷』という実践を行っていた。そういう背景を知った上で読まなければ、単なる文字の羅列、屁理屈のオンパレードにすら見えてしまうかもしれない。
解説者はその思想、活動を評して“想像力の渦巻き”と書いている。まさに、渦巻くように生きて、早死にしてしまった寺山修司であるが、次の一節は、ちょっと切ない。
「表現」があるからには「裏現」があるはずだ、と書いたのは大久保そりやだが、私はこの「表現」「裏現」の関係をも突き破るものとして、「実現」ということを考えないわけにはいかない。幸福論は、表現されるのではなくて実現されるのだ。(『おさらばの周辺部』)
“劇的な想像力”と、“あくなき好奇心”は寺山修司を疾走させたのだろうが、そのエネルギーは、或いは幸福を前借りすることで得られたものだったのではないかと思う。飲酒が、翌日の元気を前借りするものであるのと同じ意味で。
