写経するようにして、生真面目に書き写したくなるような文体。引用したい一節は枚挙に暇がない。
詩的雰囲気の中に何かを紛らわして手を抜くようなことは完全に排除している。徹底的に書く。これはもう、徹底的に書く、と表現するしかないのだ。以下は発表当時の書評である。
《『悲の器』一巻は、神なき現代日本の精神史を舞台として演ぜられる「罪と罰」である。存在=愛と、理性=権力とのせめぎあう魂のドラマである。ここには、二元論的人間論を一元論に総合し昇華するカトリシスムと、革命思想とが登場し、自己疎外された魂の救済が、むなしく絶望的な悲痛さで、しかし冷静に、問われる。そのレアリスム。ドストエフスキー直系の作者の人間観察と絶対糺問とよりなる、強力な思念の制空権。読者は恍惚と不安のうちに、暗鬱な観念の高みに、螺旋運動を行いながら吸いあげられて、現代文明の墓場の眺望を新たにするであろう。》
大仰な評のようにも感じるが、この作品を前にしてみれば、言葉は失われるか、こうした大仰な感嘆表現を連ねるしかないのである。
『さようなら、米山みきよ、栗谷清子よ。さようなら、優しき生者たちよ。私はしょせん、あなたがたとは無縁な存在であった。』
この結語に、絶句し、そしていつまでも読み終えた気がしないのはなぜか。感想など、書けようはずもなかったのだ。
