十年ぶりくらいで読んだ。先日、これも再読の『斜陽』に芳しくない感想を持ったが、太宰は短編が上手い。その技巧に触れたくて、ひもといた。以下、それぞれの感想を。
『親友交歓』
かつて読んだときは、だいぶ深読みしたらしく、“親友”を接待する“私”に、簒奪されるに足る、某かの後ろめたさがあって、最後の「威張るな!」という“親友”の捨て台詞にも、その発言を促す必然性があったのかも、なんていう後味悪い読後感を持ったものである。
しかし違うだろう。もっとわかりやすい話だ。与えられた民主主義と農地改革に浮き足立ち、その精神的遍歴に自省もしない民衆。あるいは疎開者を食いものにしてきた地元民。反発を通り越して、怒りは呆れに化学変化し損ねて、ふつふつとくすぶっていたのかもしれぬ。東京へ戻る直前に書かれたのが、太宰の微かな反撃のようで健気ではないか。
個人的に、私は作中の“私”に感情移入した。私も津軽の地に住んで八年、こんなやつがいるのか! という経験は何度かあったのである。と、個人的怨恨が、『親友交歓』への感想を歪めてしまったかもしれないのだが……。
『トカトントン』
たたみかけるリズムと絶妙な間の取り方。久しぶりに太宰の名調子を味わった。
〈新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駆けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」〉
ところでこの作品は、太宰と太宰による二人称小説である。“トカトントン”に悩む青年の訴えは、情熱と虚無の表裏一体を体感してきた太宰本人の言葉でもあろうし、それに対して〈気取った苦悩ですね。〉と答える某作家は、当然、それを客観的に俯瞰している太宰自身の立ち位置を示している。
晩年、やたらと聖書を読んでいたふうの太宰であるが、思えばその経緯を、よくは知らない。文学が、科学や理論でなく宗教に近い場所にあるのはわかるが……。
『父』
太宰晩年の作風に家庭的なことへの憎悪というのがある。本作にその傾向は顕著なのだが、憎悪といっても文字通りではないから一筋縄にいかない。
おそらく、上辺だけは天皇万歳、民主主義万歳と変転する世相も、憂鬱なる保守の温床は“家庭”であろうということ、これは一面的な真実だ。確か『如是我聞』で志賀直哉を批判する文中に、“自分の家庭がかわいいのだろう”そういう言及がされていた。
しかし義のために遊ぶとは、どういうことだろう。本作では家庭を、就中、子供を顧みぬ自らに苦悩し拘泥しつつ、絶望的に遊ぶ様子が寸描される。聖書なんか引用してキザというか言い訳たらしいなとは思ったが、最後に著者はまた問う。
〈義。
義とは?
その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまりこまなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。〉
ここを読み終え、しばし私も太宰のいう義について考え、やや漠然とながら、それは読者に対する義でもあったはずだ、と思い至った。
もはや完全な個人でいられなくなった作家は、自殺すら“文学的自殺”と言われ、プライベートをも作品とする(される)場合がある。もしそれを自覚的に履行していたなら、太宰のいう義も大いにわかるのだけれど……。だけれど、ますますわからなくなった。
『母』
その切なさ美しさが哀しいラストは印象的なのだけれど、出来過ぎていて、職人的戯作・虚構だなと思った。上手過ぎるのだ。
本作を読んで思ったが、やはり太宰作品はリアリズムと虚構を的確に使い分け、あるいはブレンドし、成立している。たとえば作中、舞台が津軽であることは説明書きでわかるが、会話は標準語で描かれる。だけど不自然さがない。バランス感覚に長けた作家だったんだなと感じる。
最後の短い会話は絶妙だ。こういうのを、喩えるなら画竜の点睛とでもいうのだろう。
『ヴィヨンの妻』
晩年の佳作と呼ばれている短編。さきに書いた職人的戯作に、切実な悲しさを拭いきれず纏っている。技巧的に狙った効果以外の、罪悪感と著者特有の傷が見え隠れして、なんとも苦しかった。ちらりと巻末の解説を見て、細部の描写が巧みであるなどと書いてあるが、そういう部分を味わう心的余裕を失いそうになった。
確かにこの短さの中に、劇的な導入部とそれに対応する安定した後日談、そして哀しいラストを描ききるのは、並の書き手では不可能だ。技術、詩的感性、ともにこれほど完璧に近い作家はそうそういない。
それゆえに、拭いきれぬあれこれが、やりきれなかった。“妻”の最後の言葉に不覚にも涙が出そうになったのである。
がっかりするのは目に見えているので、映画化されたやつは観ないつもり。
『おさん』
その自殺を、予定調和であったかのように感じさせるほど、リアルに予言的な作品である。しかも妻の視点から、冷静沈着、客観化して描く。発作的な自殺ではなかったということがこれでわかる。
女性の語り口を描くのに定評ある太宰が、こうして合わせ鏡で自らを写し出すような視座。飄々と一見は易しい文章で描くから見落としそうだが、そのアクロバティックな視座転換は驚異的である。
『家庭の幸福』
太宰のアフォリズムを理解するために必読の短編といえる。もやもやしていた家庭への憎悪というアンチテーゼは、家庭のエゴイズムを太宰特有のキリスト教解釈で批判的に捉え直す過程で生じている。
何かで太宰は、“汝自身を愛するが如く汝の隣人を愛せよ”というのを本気で追究しようとすれば、自殺するしかなくなると書いていた。この思想こそが、ここでいう『曰く、家庭の幸福は諸悪の本。』という『おそろしい結論』を導く動因になったのだろうと思う。
『桜桃』
若いころは、妙に素っ気ない雰囲気に、太宰らしからぬ違和感を覚えて戸惑った記憶がある。数年前にこの作品を手にする機会があり、そのときは『子供より親が大事』というスタンスに反感を覚えた。
だが、これほどまでに繰り返し、地獄に堕ちるがごとき心情を描き、念を押すように『子供より親が大事』と書く行間に、逆説的なものを汲むこともできそうである。
太宰治らしい読者へのサービス、という基本姿勢を削いだ、ある意味で貴重な短編である。
