アウトドアメーカー『モンベル』の会員になると、季節ごとに、カタログと広報誌のようなものを送ってくれる。野田氏の記事は、誌面によく登場するので、代表作である本書のことは知っていた。
しかし、なかなか手が出なかった。年齢を重ねた野田氏しか知らないから、身近に感じられなかったのだと思う。犬を連れて外国で川下りなんかしちゃって、ブルジョアのお遊びかよ、というイメージを抱いていたのかもしれない。とんだ偏見だが、食欲が湧かなかった。
直近の広報誌で、『モンベル』の創業者と対談していて、面白い人だなと気づいた。それで手始めに、本書を検索して文庫本で入手した。
対談で感じた以上に面白い人だった。活字を貪るように追っていた。読み終わるのが惜しかった。こういう読書体験は滅多にできないことだ。
人間が面白いのみならず、名文家である。それが河の流れのように、淀みなく続く。読んでいて疲れない。
少年に似た瑞々しさと裏腹に、無駄な虚飾を纏わないドライな文体。ときに激しく批判したり嘆いたり、或いはスケベ心を隠さず述べるのだが、厭味も嫌悪感も一切なく、さらさらと読めてしまう。人間性と高度な文体が相乗効果を上げると、こうなるのだろうか。
本書は全国14河川のカヌー川下りを描く。その中に私の故郷の雄物川もあって嬉しかった。そこでの一節がおかしくてたまらない。
秋田は「米コに酒コにオバコ」を誇る。雄物川の水が秋田美人を生むのだ、とこの川で会った人たちはテレもせず真面目な顔でいった。この川の水で洗うと肌がしっとりして白くなるのだそうだ。
「何でもPHつうのが高いんだ、雄物川の水は。天然のアストリンゼンだすべ」
秋田のもう一つの大河、米代川流域と較べると、その差ははっきりするという。そんな自慢をする人の顔をまじまじと見つめて、
「すると、あなたはきっと米代川流域の出なんですね」
といいたくなっても、そこはぐっとこらえなければいけない。
しかし、面白いだけの読書では済まされなかった。
日本の川を礼賛する書ではなく、レクイエムのような側面もある。本書は現在41歳の私が、2歳の頃に出たものだが、当時既に各地で河川はドブ化し、美しい清流にも河口堰が設けられようとしていた。著者は、もう会えなくなるかもという面持ちでパドルを漕いでいるのだ。
なんてこった、と思う。
失われたもの、損なわれたものには、もう会えない。というより、そのことに無関心だった自分が情けない。ニュースや、教科書的な知識では知っていても、実感としては他人事と捉えていたのだろう。著者は「川は危ない、川で遊ぶな」という風潮を本書でも強く批判しているが、私もまさに子供時代、そのように教育されて育った。川に近づくことは悪であった。誰かが先生に言いつけると、ひどい目に遭わされた。警官に補導されかかったこともあった。こうして、無関心な大衆が増産されてしまった一面もあるだろう。
再び、なんてこった、と思う。
きっと若いころに、この本を手にしていたら、私は車ではなくてカヌーに命を捧げていただろう。免許だけ持っているペーパー船長の私は、家を買い、子供をお受験させていく過程で、ヨットやクルージングボートは諦めた。そのかわり、クルマの屋根に載せられるような船くらいは、せめていつか買ってやるぞと薄々企んでいたから、この本との出会いは・・・今さらのようではあるが、運命的だったのだろうと思う。
不思議なものである。高校生のときは、マリンスポーツクラブに所属し、瀬戸内をカヌーで縦横無尽に漕ぎまわっていたのに、それっきりになってしまっていた。あのスリル、自由さが、この読書で甦った。滞っていたものの、再び奔出するごとく。波に酔うあの気持ちさえも鮮明に。
