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ノーベル賞の資格の1つとして、受賞者が生存していることがある。
詳しく経緯を見ると1973年以前は受賞者候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例えば1931年のエリク・アクセル・カールフェルト (文学賞)、1961年のダグ・ハマーショルド (平和賞) は授賞決定発表時に故人であった。
しかし1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが条件となった。2011年に、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明したが、特別に正式な受賞者として認定されることが決まった。

ということで、基本的にノーベル賞の受賞者は生存であり、華やかに授賞式が行われるもの、と考えていいだろう。当然だが受賞の喜びの声が聞けるのは生存者だけである。
しかし逆に言うと、ノーベル賞に値する功績があったとしても、本人が亡くなっている場合は賞が授与されない、ということだ。候補者の選定段階で生存者のみから絞りこんでいると思われるため、実際にはそのような例は歴史上多くあるだろう。
そして、ノーベル賞の選考期間は以前と比べて長くなっている。

日本経済新聞 2016年6月10日 ノーベル賞、もらうまで29年
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03424910Z00C16A6TJN000/

科学の大きな発見があってからノーベル賞が授与されるまでの期間は、徐々に長くなる傾向にある。
2016年版の科学技術白書は、1940年代以降に科学分野のノーベル賞を受賞した447人について、受賞理由となった科学の発見から受賞まで何年かかったか調査した。1940年代は平均18.5年。1950年代に15.1年と早くなったがその後伸び続け、2010年代には29.2年に達した。
受賞が遅くなっているのには主に2つの要因があると、政策研究大学院大学の原泰史さんは分析する。一つは時代が進むにつれて研究開発の幅が広がり、ノーベル賞に値する研究者が増えたこと。いわば「順番待ち」の状態になっている。もう一つは、ノーベル賞委員会が本当の第一発見者が誰かを重視しており、「慎重に調査しているため」だと原さんはみる。論文を分析し、大勢の科学者に聞き取り調査する。

 

人類の寿命が延びているとはいえ、功績から授賞までの期間が長くなればなるほど、先に述べた功績があっても受賞できないリスクが高まるだろう。
その功績から受賞までの期間の最長記録は「55年」であり、2例ある。1966年に生理学・医学賞を受賞したペイトン・ラウス (Francis Peyton Rous、1879年10月5日 - 1970年2月16日) と、1986年に物理学賞を受賞したエルンスト・ルスカ (Ernst August Friedrich Ruska、1906年12月25日 - 1988年5月27日) である (厳密にはペイトン・ラウスの方が長い)。この2人の功績と受賞までの経緯を見てみよう。

ノーベル賞で辿る医学の歴史 がんとの闘い~ラウス肉腫ウイルス発見から55年目の受賞
https://epilogi.dr-10.com/articles/1388/

ペイトン・ラウスは彼はアメリカの病理学者で、1911年に腫瘍ウイルス (がんウイルス) を発見し、その約半世紀後の1966年にノーベル生理学・医学賞を受けました。実は、これほどまでに時間を要したのには理由があります。
1926年、ヨハネス・フィビゲルという病理学者ががん研究で初のノーベル賞を受賞しました。その研究は、がんの原因を寄生虫とする「寄生虫発がん説」というもの。しかし現在、がんの原因が寄生虫でないのは周知の事実。フィビゲルの説は残念ながら間違っていたのです。
フィビゲルの研究を誤りだと見破るのは、当時の技術では難しかったと考えられており、現在も賞は取り消されていません。けれども、ノーベル財団はこの誤りによほど懲りてがん研究に対する評価を厳しくしたのでしょうか。この件からしばらく、がん研究に対するノーベル賞授与はありませんでした。新しい技術を認め評価する難しさに、昔の人々もまた悩まされていたことがうかがえます。
それから40年経った1966年、がん研究において2番目にノーベル賞を受けたのがラウスです。腫瘍ウイルスを発見した功績が認められ、受賞が決まりました。
がんの存在は古代ギリシアの時代から確認されていましたが、その原因は長らく謎のままでした。20世紀に入ると、西洋医学の世界では「感染症は特定の微生物 (細菌) により引き起こされる」という説が一般的になりました。そこで研究者たちは、がんも細菌による感染症であると考えるようになります。当時この考えがあったからこそ、フィビゲルの寄生虫説は支持されたのです。
その一方で、ラウスはがんの原因を「細菌より小さな何か」だと考え、研究を経て見事に腫瘍ウイルスの存在を突き止めます。ラウスによる腫瘍ウイルスの発見は、その後のがん研究に大きく影響しました。当時、定説の細菌ではなく「細菌より小さな何か」だとするラウスの研究は冷笑されたといいます。それから55年。ノーベル賞受賞の連絡を受けた時、ラウスは87歳の高齢となっていました。定説を疑い、周りの目にも負けず自身の信念を貫抜くことは、多様性が認められつつある現代でも難しいこと。約100年も前であればなおのこと、その道のりは苦難の連続だったのではないでしょうか。


 


ここにもあるとおり、ノーベル賞は取り消されることはない。そのため選考に慎重になり、功績から受賞までに時間を要する例である。

エルンスト・ルスカは電子顕微鏡に関する基礎研究と開発で受賞したが、その電子顕微鏡の歴史とともに経緯を見ていこう。

電子顕微鏡 電子顕微鏡の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1#%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%A1%95%E5%BE%AE%E9%8F%A1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

磁場の電子線に対するレンズ作用を実験で示したのは1927年ドイツのハンス・ブシュである。最初の電子顕微鏡は1931年にベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカが開発した。シーメンスの科学ディレクターだったドイツ人のレインホールド・ルーデンベルクが1931年に特許をとり、1938年に電子顕微鏡を売り出す。走査型電子顕微鏡は1937年マンフレート・フォン・アルデンヌによって製作された。1950年代から多くの分野で活用され、さらに短波長の電子線 (加速電圧の向上) などによって性能は向上した。

 

ここにある「走査型電子顕微鏡」は、観察対象に電子線をあてそこから反射してきた電子ビームから得られる像を観察する顕微鏡である。
また似た言葉の「走査型トンネル顕微鏡」がある。これは対象の近くに非常に細い針 (プローブ) を近づけ、針と対象物の間に流れる電流が針と対象との距離によって変化することを利用して、対象の微細な凹凸を測定するというものだ。どちらも電子ビームや針の先端は「点」なので、一点を観察しただけでは像にはならず、平面像を得るためには電子ビームや針を縦横にZ字状に動かして面全体を観察する必要があり、これを「走査」と言う。 (と調べて記述してみたが、全く理解できていない)
この「走査型トンネル顕微鏡」は1982年に、スイスのハインリッヒ・ローラーと、西ドイツのゲルト・ビーニッヒによって開発された。当初は性能や原子レベルの観測結果に懐疑的な意見もあったが、それまで構造の解明がなされずに30年近く論争の的となっていたシリコン表面の構造解明の手掛かりを、彼らの装置の観測結果をもとに得ることができたため、1986年に2名はノーベル物理学賞を受賞した。これは功績からの期間が4年と短い。

そして同じく1986年にエルンスト・ルスカが、1931年の電子顕微鏡の基礎研究と開発でノーベル賞を受賞した。
このことから、「走査型トンネル顕微鏡」という功績が機会となり、その源である「電子顕微鏡」の基礎研究・開発を改めて評価しノーベル賞を授与した、と考えることができる。
尚、エルンスト・ルスカの共同開発者であったマックス・クノールは1969年に亡くなったため受賞資格がなかったが、その時点で生存していれば当然ノーベル賞を受賞していたことだろう。 (以下がエルンスト・ルスカ (右) とマックス・クノール (左) による最初の電子顕微鏡の写真である)

革新的な発明の基礎を築いたとしても、実用化、活用化に長い時間を要することや、その評価ができる時代になっていない、ということは当然あるわけで、マックス・クノールのように最初の開発者が受賞できない事例は数多くあるだろう。
ペイトン・ラウスとエルンスト・ルスカは、条件が整ったタイミングがかろうじて間に合った、と言うことができる。
従って、「生存していること」というノーベル賞の条件は不平等であり、それ以上に問題なのは人類が歴史上の功績を正しく把握できないということに繋がっていることなる。授賞式の華やかさよりももっと大事なことがあるはずだ。
もしあなたがノーベル賞の手応えのある発明を成し遂げたら、あとはひたすら長生きできるように規則正しい生活を送った方がいいだろう。

 



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