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日本の芸術関係の表彰として最も権威があるのは「日本芸術院賞」であろう。国の栄誉機関である日本芸術院が授与する賞で、卓越した芸術作品を作成した者または芸術の進歩に貢献した者に対して授与される。
日本芸術院は1919年 (大正8年) に帝国美術院として創設され、昨年で100年を迎えた。そして日本芸術院賞は1942年 (昭和17年、昭和16年度) の第1回から、第二次世界大戦末期と直後 (1945年~1947年) を除いて毎年授与されている。1950年からは毎年の受賞者の中でも特に選ばれた者に対して「恩賜賞」が授与されている。共に皇室の下賜金で賄われており、受賞者には賞状・賞牌・賞金が贈呈されるとともに、授賞式は毎年6月に天皇・皇后の行幸啓を仰いで行われている。



この賞は第一部 / 美術 (日本画、洋画、彫塑、工芸、書、建築)、第二部 / 文芸 (小説・戯曲、詩歌、評論・翻訳)、第三部 / 音楽・演劇・舞踊 (能楽、歌舞伎、文楽、邦楽、洋楽、舞踊、演劇) と芸術のさまざまなジャンルから選出される。みなその道のレジェンドであり、「長年の秀でた業績に対し」という選出理由も多い。必然的に年長者が多く、例えば平成30年の受賞者 (恩賜賞および日本芸術院賞) 8名の平均年齢は70歳だった。

さて、日本芸術院賞は戦前の第1回~第3回は「帝國藝術院賞」(以下「帝国芸術院賞」) と呼ばれた。この3年での受賞者は以下の10名だ。



特徴として受賞者の平均年齢が比較的若いことに気づく。10名の平均年齢は約51歳で、30代の受賞者も4名含まれている。 (年齢は受賞日を4月1日として計算)
また受賞作品から察することができるとおり、戦意高揚の意図が感じられる受賞も見られる。「娘子関を征く」の小磯良平、「建つ大東亜」の古賀忠雄、「山下パーシバル両司令官会見図」(写真) の宮本三郎はいずれも卓越した芸術家だが、生涯を通じてみると受賞後の功績の方が目立つように思われる。小磯良平は群像表現を極めることを生涯のテーマとして戦争画にも取り組んだが、戦意高揚のために戦争画を書いてしまったことに心が痛むと晩年に語っている。



33歳で受賞した井口基成は、当時すでに日本初の本格的なピアニストとして、また音楽教育者として著名であった。しかし日中戦争・太平洋戦争が勃発し、外国音楽は「敵性音楽」として演奏を禁じられた中で帝国芸術賞を受賞した背景として、井口が文部省と情報局との共管による楽壇統制の新団体「日本音楽文化協会」の常務理事となり、陸軍省 からは兵隊たちに対潜警戒のための音感教育訓練を命じられたという経緯もあるようだ。井口は終戦後に「子供のための音楽教室」(後の桐朋学園音楽部門の母体) を開設し、小澤征爾や中村紘子など多くの音楽家を育成した。

また、第1回3名が第2回6名と受賞者が増えたのちに、第3回の受賞者がわずか1名となったのは、いよいよ戦況が悪化したことが原因と考えられる。
その中で受賞した (二代目)豊竹古靭太夫 (とよたけこうつぼだゆう) は、豊竹山城少掾 (とよたけやましろのしょうじょう) の前名で、近代屈指の義太夫節大夫の名人だ。

豊竹山城少掾
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E7%AB%B9%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%B0%91%E6%8E%BE

豊竹山城少掾 (1878年12月15日~1967年4月22日)は明治・大正・昭和の三代にわたって活躍した義太夫節大夫。近代屈指の名人として知られ、義太夫節・人形浄瑠璃に大きな足跡を残した。本名は金杉彌太郎(かねすぎやたろう)。
東京浅草生まれ。3歳で三代目片岡我童の弟子となって、片岡銀杏の名で歌舞伎の舞台に立ったこともあるが、8歳のとき竹本政子太夫・鶴澤清道に師事し、義太夫の修行を始める。1889年に大阪へ移り二代目竹本津大夫に入門し、津葉芽大夫を名乗る。またこの年人形浄瑠璃において初舞台を踏む。
1909年に二代目豊竹古靱太夫襲名。このころから若手の有望株として認められ、竹本摂津大掾や相三味線三代目鶴澤清六などについて積極的に学ぶ。1930年に四ツ橋文楽座が開場して後は、三代目竹本津大夫、六代目竹本土佐大夫らと並んで三巨頭と呼ばれ、1942年には文楽座付きとなる。1943年4月帝国芸術院賞を受賞。
1946年帝国芸術院会員、大阪府文芸賞。1947年秩父宮より掾号受領、名を豊竹山城少掾藤原重房と改め、名実ともに当代の第一人者として目されるようになる。この年には昭和天皇の行幸にあわせて御前演奏も勤める。1955年人間国宝。
1959年、文楽座で引退興行を行い、『二月堂』の良弁を語る。同年大阪市民文化賞。1960年文化功労者。1964年勲三等旭日中綬章。その3年後に死去、享年88。従四位が追贈された。


1959年の引退興行の映像が残っているので見てみよう。



国の重要無形文化財で世界無形文化遺産でもあるにもかかわらず、私は文楽についてほとんど知識がない。しかし歴史的な義太夫節名人ののダイナミックで華麗な語りを感じることができる。
この引退興行では務めていないが、相三味線を永く務めた四代目鶴澤清六 (1889年2月7日~1960年5月8日) も、1950年に日本芸術院賞を受賞している。また、豊竹山城少掾の弟子であった八代目竹本綱大夫 (たけもとつなたゆう)、その息子の豊竹咲太夫 (とよたけさきたゆう) も日本芸術院賞の受賞者である。

このように見ていくと、日本芸術院賞の歴史と価値を改めて認識することができる。文楽のみでなく多分野にわたるので理解が及ばないが、今後毎年受賞者の功績をよくチェックするようにしよう。



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