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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

このブログではハット・リバー公国ニューアトランティスなど何度かミクロネーションを取り上げている。基本的にミクロネーションは創設者 (国王) の趣味やこだわりで成り立っていると思う。
しかし極めて政治的な要素を持ち、他国 (周辺国) から攻撃を受けて滅びたミクロネーションが存在する。伝説のミュージシャンであるフェラ・クティ (Fela Kuti) が建国したカラクタ共和国 (Kalakuta Republic) である。

 

カラクタ共和国 
https://en.wikipedia.org/wiki/Kalakuta_Republic

(英語版和訳)
カラクタ共和国、ミュージシャンであり政治活動家でもあったフェラ・クティが、家族、バンドメンバー、レコーディングスタジオのある共同住宅に付けた名前である。ナイジェリアのラゴス州に位置し、無料の診療所とレコーディング施設を備えていた。
フェラは1970年にアメリカからナイジェリアに帰国後、軍事政権が支配する国家からの独立を宣言した。1977年2月18日、千人の武装兵士による襲撃の後、敷地は全焼した。
「カラクタ」とは、フェラが住んでいた「カルカッタ」という名の監獄をもじったものである。この名前はもともと、インドの悪名高いカルカッタのブラックホールという地下牢に由来する。

フェラ・クティ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3

フェラ・クティ (Fela Kuti、1938年10月15日 - 1997年8月2日) は、ナイジェリア出身のミュージシャン、黒人解放運動家。
1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に入学し、単身留学する。在学中にトランペットを習得する。この時期に黒人差別を体感したことが、彼に生涯にわたる深い影響を及ぼすことになる。
1969年、アメリカにツアーに旅立つ。しかし同国においてフェラのようなアフリカ音楽は、聴衆の関心を集めるものではなかった。マネジメントにも恵まれず、さらに彼らは労働許可証を保持していなかったためアメリカ移民局に睨まれ、メンバーの一部が離脱するなど辛酸を舐めることになる。さらにここでも黒人差別に直面し、マルコムXやブラックパンサー党などについて学び始める。これにより彼の音楽性は輸入音楽の物真似からアフリカ土着音楽への転換すると同時に、政治的メッセージの重視へと変貌を遂げる。
1970年、ナイジェリアへ帰国。この頃に音楽性は確立される。政治的メッセージはより強化され、黒人の解放に加えて「キリスト教、イスラム教の破棄」、パン・アフリカニズムの実現をも訴えるようになる。またそれによる富裕層による圧迫も、時とともに激しさを増すようになる。
1974年、ついに公権力からの弾圧が強行され、フェラは警察の自作自演による大麻所持容疑と未成年者誘拐で逮捕され、カラクタ監房に2週間拘置される。しかし大麻所持は証明されず、さらにフェラの許にいた未成年とされた女性は自身の意思による家出であることが明かされ、彼は釈放される。 帰宅したフェラは自宅の周囲を高さ4mの有刺鉄線で囲み、そこを「カラクタ共和国」と命名した。彼はその場所で志を同じくして集まった仲間たちと共同生活を営み、国家との対立を一層深めるようになる。一方でカメルーン・ツアーを成功させるなど、商業的には絶大な成功を収めるようになる。
1975年、再び逮捕された経験を元にアルバム『エクスペンスィヴ・シット』を、警察にカラクタ共和国を攻撃された際に負傷した経験を元にアルバム『カラクタ・ショー』を発表しヒットする。彼は都合12回逮捕されるが、そのつど証拠不十分によって釈放されている。
1976年、軍隊をゾンビに喩えたフェラの代表作『ゾンビ』を発表する。
1977年、対立はついに頂点に達し1,000人の軍隊により共和国は襲撃を受ける。建造物は放火によって消失、77歳になっていたフェラの母フンミラヨはこのとき受けた傷が元で翌年他界する。フェラは拘留され裁判が開かれるが、この公判は警察によって、「ニューヨーク・タイムズ」などの外国報道機関が追放された閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受ける。

 

ナイジェリアは1960年に独立したが、内政は混迷しており、クーデターが頻繁に起きて軍政と共和政が交互に移行する歴史が続いている。
1967年から1970年にかけてビアフラ戦争と呼ばれる内戦が起き、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言した東部州はが包囲され、食料・物資の供給が遮断されたため飢餓が国際的な問題となった。
1975年に軍の民政移行派によるクーデターが成功し、ムルタラ・ムハンマド将軍が大統領に就任したが、1976年に暗殺されてしまいオルシェグン・オバサンジョ (Olusegun Obasanjo) が第5代大統領となった。

一方でフェラは1976年にナイジェリアの軍事政権を題材にした 『ゾンビ』 というレコードを作り、この曲では、命令に盲従する兵士たちがゾンビと呼んだ。この曲のセリフのひとつに、「ゾンビは、あなたが歩けと言わない限り歩かない」 というものがあり、フェラは腐敗した金持ちの上層部による汚職と地域社会への脅迫を許しながら、ナイジェリア人を脅迫する命令には盲目的に従うナイジェリア陸軍の隊員たちに不満を抱いていた。
この曲がナイジェリア国内で人気となっために、オルシェグン・オバサンジョと軍部がフェラの絶え間ない批判に不満を抱いたことが、襲撃の原因となった。

「共和国の中に共和国が存在するのは見苦しい」という主張もあったようだが、さすがに個人を相手に1,000人の軍隊での襲撃はやり過ぎである。武力行使が公然と行われていた不安定な政情であったことがわかる。

フェラはカラクタ共和国の襲撃後に拘留されて裁判が開かれるが、この公判は警察によって外国報道機関が追放された閉鎖的なものであった。結果的に彼は釈放されるが政府の圧力により公演会場からは締め出されてしまい、カラクタ「共和国」という呼称も禁止勧告を受けた。
その後1980年代には音楽に体調不良やモチベーションの低下もあり活動は停滞し、リリースが減少していった。そして1997年8月2日にエイズによる合併症で死去した。

一方で、オルセグン・オバサンジョは1979年に大統領を退き、その後政界も引退して農民となった。
その後1999年の大統領選挙において勝利し、第12代大統領となった。そして軍隊を非政治化し、広範な民族的、宗教的、分離主義者の暴力と戦うために警察を拡大した。また膨れ上がる国の債務を制限するために、さまざまな公共企業を民営化した。2007年まで大統領を務め、植民地後のアフリカにおける政治的指導者の偉大な人物の1人という評価もある。

尚、2012年にラゴス州の知事がカラクタ共和国の敷地を再建して博物館に変える取り組みを行い、フェラの誕生日である2012年10月15日にカラクタ博物館がオープンした。 ここにはフェラの衣服、楽器、芸術作品が展示されているほか、レストランやホテルもある。

The Kalakuta Museum
https://felakuti.com/us/legacy/kalakuta-museum

歴史上の事件はその時点で起こったことなので、その時点での当事者の判断に対して後世の人間が批評するのは好ましくないだろう。
しかしナイジェリアの混乱期において、個人が国家を建設して国家権力に対抗して鎮圧されたという歴史があったことは覚えておくこととしよう。



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